ストラディブログ
欧羅巴徒然紀行
April 12, 2010

フランス・ミルクール その4・ミルクールの街 2010.01.21-01.24

2010年1月下旬(日本時間で1月16日出国〜25日帰国)、商用でフランスのパリとミルクールを訪問してきました。北半球の大寒波、ヨーロッパも記録的な寒さと雪でしたが、私達が訪問した時は寒波のピークは終わっていて順調に旅行することができました。訪問の主目的は楽器の買付けですが、今回は日程を多目に確保し、前からとても興味があったミルクールやパリの現代作家を訪問取材してきました。なお、今回旅行の取材では、現地コーディネートならびに仏語通訳でJCOM(ジーコム)の浜さんのお世話になりました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。

観光パンフレット・弦楽器製作者コースミルクール(Mirecourt)市はフランス北東部の都市で、ロレーヌ(Lorraine、人口約234万人、中心都市はナンシー)州(region、地域圏)のヴォージュ県(Vosges、人口約38万人、県都はエピナル・Epinal)の小都市です。人口は約6000人。
ヴォージュ平野の中心部にあり、マドン川(Madon)が市の中心部を流れています。(2006年10月、異常気象による大雨でマドン川が氾濫。ミルクール市街地は最大1メートル30センチ浸水したそうです)ミルクールは地政学的な要衝にあり、様々な交通ルートが整備されています。また、主要な学術的中心地(ナンシーやエピナル)にもほど近い位置にあります。また、周辺にはウィンタースポーツや温泉等のリゾートもあります。

同パンフの地図。ミルクールがあるロレーヌ地方は、ベルギー、ルクセンブルク、ドイツの三国に囲まれた戦略的要衝です。石炭、鉄鉱石、岩塩など豊富な地下資源があり、早くから重工業が発展した地域です。地下資源ならびに通商路を巡って、特にドイツと激しい争奪戦が続き、普仏戦争後の1871年には一部がドイツに併合された歴史があります。1919年、併合地域はヴェルサイユ条約でフランスに返還され、ナンシーを中心に重工業が発展しました。
ジャンヌ・ダルクの生まれた村ドンレミ、高級クリスタル製品で名高いバカラ村はこの地方に位置します。菓子マカロンや「キッシュ・ロレーヌ」など名物料理も多い地域です。

同パンフの地図。短いコース。地図を番号順にたどっていけば、巨匠達が使用していた工房・住居建物を巡ることができます。ミルクールの起源は千年以上前に遡り、盛んな工芸品(弦楽器、オルガン・機械楽器、レース)取引によって、周辺地域で一番重要な交易場所でした。17世紀以降、弦楽器メーカーとレース商人は、市場をヨーロッパならびに全世界に求めました。その時より栄枯盛衰はありながらも、ミルクールは芸術的伝統と商業都市としての明確な性格を保ち続けています。

同パンフの地図。外周コース。
ミルクールならびにその周辺には、400人前後の職人が集まっています。 ミルクール市街地での産業活動は木材加工に集中しています。2つの会社がおよそ1200人を雇用しており、毎日たくさんの台所ならびに浴室ユニットを生産しています。また、ミルクールの木工技術は弦楽器ならびに弓メーカに代表されます。ミルクールの第三の産業は、主となる伝統的商店と、大型スーパー(街の中心部にはほとんどありません)等のサービス業です。商工業合わせて188の企業・商店・工房があります。

マドン川(Madon)の橋から見たミルクール市街地。

同じく、マドン川(Madon)。

マドン川(Madon)の橋から見たミルクール市街地。

同じく、マドン川(Madon)の橋から見たミルクール市街地。

同じく、マドン川(Madon)の橋から見たミルクール市街地。

同じく、マドン川(Madon)の橋から見たミルクール市街地。レストラン。

L.V.MOUGENOT -LuthierLeon Victor Mougenot(1874-1954、レオン・ヴィクトル・ムジノ)
Emile Laurent工房で修行を開始し、次に1887年から1894年まで、Brusselsにあった父の従兄弟Georges Mougenotの工房に加わりました。1894年から1896年までLyonのPaul Blanchard工房で、1896年から1898年までパリのP Jombard工房で、1899年にミルクールで独立するまでの間はロンドンのHill工房で、それぞれ働きました。彼の作品は、バイオリンとチェロの双方で、卓越した技量と優れた音質で高く評価されています。

COUESNON工場 -Manufacture
1885年に設立され、1967年まで操業していた弦楽器製造工場の建物です。工場の規模はそれほど大きくなかったようで、敷地面積や建物の風情からすると町工場だった印象です。

C.L.COLLIN MEZIN -LuthierCharles Louis Collin Mezin(1870-1934、チャールズ・ルイス・コラン・マザーン)Charles Jean Baptiste Collin Mezin(コラン・マザーン、1841-1923)の息子です。父の下でパリで修行し、共に働きました。父の死後、工房をパリからミルクールに移しました。彼はまたアメリカでも短期間働きました。彼の作品も父親の名を引き継ぐ(彼の作品のラベルには父親の名前と製作地パリが表記)に恥じない高いレベルのものと評価されています。Charles Jean Baptiste Collin Mezin(コラン・マザーン、1841-1923)
Charles Jean Baptiste Collin MezinはMirecourtで生まれました。父である弦楽器製作者C.L.Collinの下で修行。1868年にパリへ移り、1878年、1889年ならびに1900年のパリ万博にて金賞や銀賞を受賞。当時のフランスで中心的な製作者として名声を確立しました。

HOTEL DE VILLEミルクール市役所の正面です。

S.P.BERNARDEL -LuthierSebastien Philippe Bernardel(1802-1870)
ミルクールで生まれ、修行を始めました。1820年頃、パリに出てNicolas Lupot工房に入りました。その後、Charles Francois Gandと共同で製作活動を行い、1826年に自身の工房をパリに開きました。1959年には、二人の息子Gustave Adolphe BernardelとErnest Auguste Bernardelが、工房経営に参加しました。1866年に彼が引退した時、Charles Eugene Gand(1825-1892、Charles Francois Gandの息子)が経営に参加して、二人の息子達と共に工房を引き継ぎ「GAND & BERNARDEL」として製作活動を続けました。1892年にCharles Eugene Gandが亡くなり、Gustave Adolphe Bernardelが経営を引き継ぎましたが、1901年にAlbert CaressaとHenry Francaisに工房を売り、工房は「CARESSA & FRANCAIS」という名前で引き継がれました。

E.F.OUCHARD -ArchetierEmile Francois Ouchard(1872-1951、エミール・フランソア・ウーシャ)
ミルクールで生まれました。1886年頃からCUNIOT-HURY工房で修行を始めました。直ぐに才能を発揮し、工房の助手を務めるまでに成長しました。1910年、師匠CUNIOT-HURYの死去により工房を引き継ぎました。1923年に自身の工房をミルクールで開き、息子Emile Auguste Ouchard(1900-1969)を含め十数名の職人を雇って製作を行い、1951年に亡くなりました。(息子Emile Auguste Ouchardは工房経営を巡り父親と対立してしまい、父の工房を出てパリへ行ってしまいました)
彼は、自身が優れた弓製作職人だっただけでなく、指導者としても手腕を発揮しました。息子も含め、彼は大勢の優秀な弓製作職人を育成しました。

RENE JACQUEMIN -LuthierRene Jacquemin(1886-1962)が使っていた建物。
なお、画面左の扉(70番地の表札)は、Jean Jacques Pages(ジャン・ジャック・パジェス)氏が主宰する私立の弦楽器製作学校"ECOLE
INTERNATIONALE DE LUTHERIE D'ART JEAN-JACQUES PAGES" (JEAN-JACQUES
PAGES'S INTERNATIONAL SCHOOL OF LUTHERIE ART)の入口です。

N.AUGUSTIN CHAPPUY -Luthier

DOMINIQUE PECCATTE -ArchetierDominique Peccatte(1810-1874)
Frabcois Xavier Tourte(1748-1835)と並ぶ19世紀の巨匠です。1810年、鬘職人の長男として生まれ12歳頃から美容師の修行を始めましたが、じきに弦楽器製作の興味を持つようになりました。1826年頃、当時のフランスで弦楽器ならびに弓製作で指導的な役割を担っていたJean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の工房に入り、弓製作の修行を開始しました。弓製作の技術指導は同じ工房にいたJean Pierre Persoit(c1783-1854?)がVuillaumeより依頼されて行いました。1839年頃、Francois Lupot 世(1774-1838)の工房を継承しました。

GUSTAVE BAZIN -LuthierGustave Bazin(1871-1920)
Charles Nicolas Bazin II(1847-1915、チャールズ・ニコラス・バザン2世)の長男で弦楽器製作者。パリのCOLLIN- MEZIN工房で働いた後、1891年にミルクールで自身の工房を構え数人の職人を雇い製作活動を行いました。
なお、Charles Nicolas Bazin IIの次男Emile Joseph Bazinと三男Charles Louis Bazin(1881-1953、チャールズ・ルイ・バザン)は高名な弓製作者になりました。

同じく、Gustave Bazin(1871-1920)が使っていた建物。彼の父Charles Nicolas Bazin IIは、弓製作者Francois Xavier Bazinの息子で、父の死後に工房を引き継ぎ、ミルクールで成功をおさめました。Charles Louis Bazin(1881-1953 彼の三男)、 Victor Francois Fetique(ヴィクトル・フランソワ・フェティーク 1872-1933)、Louis Joseph Morizot(ルイ・ジョゼフ・モリゾー 1874-1957)など数多くの弟子を育てました。また弓ならびに楽器製作者の地位向上に努め、楽器製作学校の設立も目指しました(残念ながら彼の存命中には実現しませんでした)。人望も厚く、町議会の議員に選ばれたほどです。

街角の光景。

P.A.MANGENOT -LuthierPaul Alexandre Mangenot(1862-1942)
ミルクール生まれ。Paul Joseph Bailly(1844-1907)の下で修行し、パリやリヨンの主要な工房で、Joseph Hel(1842-1902)やCharles Jean Baptiste Collin-Mezin(1841-1923)に混じって働きました。1890年に、Justin Derazey(Just Amedee Derazey、1839-1890、有名な弦楽器製作者Jean Joseph Honore Derazeyの息子) の工房で働くためミルクールに戻りました。彼はミルクールで評価を確立し、二人の息子ReneとAlbertが父親と共同作業を行いました。しかし、1914年、二人とも第一次世界大戦で戦死してしまいました。彼の名前は、MARC-LABERTE工房に引き継がれ、製品の一部でラベルとして使われました。

同じく、Paul Alexandre Mangenot(1862-1942)が使っていた建物と周辺の光景。

MORIZOT Freres -Archetiers
MORIZOT兄弟の建物=Louis Morizotの5人の息子達(Paul Charles、Louis Gabriel、Andre Auguste、Paul Georges、Marcel Louis)が1937年から1970年まで使っていた建物です。

同じく、MORIZOT Freresの建物(1937-1970)。

FRANCOIS LAMY
Thibouville Lamy社が従業員の宿泊用に1860年頃までに築いた建物です。 建築家のFrancois LamyがLouis Emile Jerome Thibouvilleの義兄弟であることから名づけられたようです。

同じく、FRANCOIS LAMY(CONSTRUITE VERS 1860)。

E.E.AUDINOT -Luthier
Eugene Emile Audinot(1880-1941)
室内楽向けの楽器修理と付属品製造を専門とし、弦楽器用の木材も売っていました。

同じく、E.E.AUDINOT(1880-1941)の建物。

マドン川(Madon)の橋。

マドン川(Madon)対岸から見た弦楽器製作博物館。

PIERRE MALINE -Archetier
Pierre Maline(1883-1939)
父親の下で修行を始め、CUNIOT-HURY(通称:クニオ・ユーリ、Eugene Cuniot、1861-1910)の工房で働きました。1911年、パリのFeret Marcotte工房で働くために一族で移住するまで、ミルクールで製作活動を行っていました。

同じく、PIERRE MALINE(1883-1939)が使っていた建物。

マドン川沿いの公園。対岸に市街地が見えます。

市街地の一角。

F.X.BAZIN -Archetier
Francois Xavier Bazin(1824-1865)
ミルクールの弓製作者。非常に高名な弓製作者としてのBAZIN一族の創始者に該当します。Charles Nicolas Bazin II(1847-1915、チャールズ・ニコラス・バザン2世)の父で、少年期の彼に弓製作と工房経営の基礎を教えました。

同じく、F.X.BAZIN(1824-1865)が使っていた建物。

A.J.HUSSON -Archetier
Arthur Joseph Husson(1865-1939、アーサー・ジョセフ・ウッソン)
ミルクールで働いた弓製作者です。

同じく、A.J.HUSSON(1865-1939)が使っていた建物。

Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の生家だった建物。写真真ん中、青い外壁の小さな建物です。

同じく、Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の生家だった建物。

NICOLAS VUILLAUME -Luthier
Nicolas Vuillaume(1800-1872)
Claude Francois Vuillaume IVの息子で弟子。1832年に兄Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の工房で働くためにパリに出て、1842年までその地で働き続けました。後に生まれ故郷のミルクールに戻り、その地で働きました。1865年頃には、彼の工房の職工長として認められていた義理の息子Auguste Darteと共同作業していたようです。

同じく、NICOLAS VUILLAUME(1800-1872)が使っていた建物の全景。

LOUIS VIGNERON -Luthier
Louis Vigneron(1887-1971、ルイス・ビネロン)
弦楽器のニス仕上げの達人と呼ばれました。ミルクールの複数の工房(Amedee DieudonneやMarius Didierなど)
で働きました。

同じく、LOUIS VIGNERON(1887-1971)が使っていた建物の門柱。

J.J. DERAZEY -Luthier
Jean Joseph Honore Derazey(1794-1883、ジョン・ジョセフ・オノレ・デラゼイ)
ミルクールで修行を終えた後、パリに出ていくつかの工房で働きました。1830年頃、Jean Baptiste Vuillaume工房に入りました。その優れた技術と経験により彼は直ぐに、この偉大な人物の中心的な共同製作者となりました。 Vuillaume工房時代、他の製作者と共に働きながら、彼はGaspar da Saloのコピー楽器の大部分を作りました。彼の息子Justin Derazey(1839-1890、ジュスタン・デラゼイ)も弦楽器製作者になりましたが、製作者よりは事業経営者として成功を納め、高品質の量産品を製造販売しました。

同じく、J.J. DERAZEY(1794-1883)が使っていた建物。←J.J. DERAZEYの肖像写真。
(Coll. Musee de la lutherie a Mirecourt、より)

Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の生家だった建物付近。

Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の生家だった建物付近。

Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の生家だった建物付近。

CHARLES BUTHOD -Luthier
Charles Buthod(1810-1889)
パリのJean Baptiste Vuillaume工房で修行し、そこで働きました。1834年、ミルクールで自身の工房を開き、数人の職人を雇って弦楽器を製作しました。Claude Charles Nicolas Husson(1823-1872)の妹と結婚し、1848年には共同の工房「HUSSON BUTHOD」を作りました。1857年、工房は弦楽器生産と販売に力を入れていたThibouville Lamy社と提携するようになりました。

同じく、CHARLES BUTHOD(1810-1889)が使っていた建物。

ECOLE MUNICIPALE DE MUSIQUEミルクール市立の音楽学校の入口です。

HOTEL DE VILLE・ミルクール市役所。

MAISON DE LA MUSIQUE MECANIQUEの外観。機械式楽器のための博物館("機械楽器の家")です。ミルクールのかっての主要産業は、弦楽器・弓製造、レース製造と並んで、オルゴール等の機械楽器製造でした。
■MAISON DE LA MUSIQUE MECANIQUE

MIRECOURT A SES ENFANTS MORTS POUR LA PATRIE
"祖国に殉じた男、女、そして子供達の慰霊碑"だそうです。

ミルクール駅。

同じく、ミルクール駅。非電化のローカル線です。大勢の子供達が列車に乗り込んで行きました。

ミルクールの弦楽器製造・1
弦楽器製造に関するミルクールの歴史は、3つの時代に分けられます。
第一は17世紀から18世紀で、弦楽器製作が始まった時代です。第二は19世紀から20世紀半ばまで、工場による大量生産の時代です。第三は1970年頃から現在に至る、復興期です。
1766年まで、ミルクールはロレーヌ公(ducs de Lorraine、ドイツ語ではロートリンゲン公・Herzog
von Lothringen)が支配するロレーヌ公国の領土に含まれていました(1766年にロレーヌ公国はフランスに併合された)。当時の貴族の例に違わず、その宮廷では音楽会が頻繁に行われていました。そのため、多くの演奏家や弦楽器製作者達が集まるようになりました。その中にはクレモナで学び、ミルクールに定着した製作者もおり、そこからミルクールの弦楽器産業が育ち始めました。18世紀には、弦楽器と弓製作で卓越した才能を発揮した数多くの巨匠達を輩出したのです。
一方、弦楽器と弓販売の中心はパリにありました。当時のミルクールは多くの名工がいる製作地としては有名でしたが、名声を確立するためにはパリに出て認められる必要があったのです。作品の中に、ミルクールで作られたにも関わらず、パリ製としてラベルが貼られ販売されたものが結構あるのも、こういう事情によるものと推察されます。

ミルクールの弦楽器製造・2
19世紀半ば、弦楽器演奏が大衆化して楽器需要が高まる中、 ミルクールは大量生産で需要に応えました。家内工業的な小規模な工房でも複数の職人を雇いました。工場を建設し、大勢の 職人や下請工房を抱えて、分業体制による大量生産を行いました。500人を超える職人を雇っていた工場もありました。小規模工房でも十人前後から数十人を雇い、各種モデル・品質ランクで多品種のものを製造することで大規模工場に対向しようとしました。
第一次世界大戦前後には、周辺の村の女性達(伝統的なレース産業で指先が器用)が大量に弦楽器工場で雇われるようになり、一方、農村で弦楽器製作の下請内職が流行りました。
弦楽器工場では、表板裏板の機械プレス加工を導入する等、産業革命の時代に相応しい大量生産の工夫もなされました。大量生産というと粗製濫造のイメージを持つ人もいるでしょうが、 ミルクールの製品は決して低品質ではありませんでした。確かに下請内職で雑に作られたものも少なくありませんでしたが、 名前の通った工場の製品は、その価格ランクに応じてきちんと作られたものが多かったのです。また、小規模な工房で分業で作られたものは高品質のものが多く、国内外で高く評価されてい ました。もちろん、工房や職人の中には、大量生産を良しとせず、昔ながらの手作業を続けたところもありました。
しかし、ミルクールの弦楽器製作は、第二次大戦後の1950年頃から大きく衰退してしまいました。衰退の原因は、弦楽器の大量生産において、ドイツや東欧圏との競争でコスト面で不利な立場に追い込まれたからです。戦後ならびに東欧圏の社会主義化という混乱期で、弦楽器需要が落ち込んだことも背景にあると思われます。

ミルクールの弦楽器製造・3
現在のミルクールには、かっての弦楽器工場はなく、少数の弦 楽器製作者・弓製作者・部品製作者が小さな工房を構えて活躍しています。国立弦楽器製作学校ならびにパジェス氏が主宰する私立の製作学校があり、フランスの弦楽器製作教育の中心になっています。また市立弦楽器製作博物館が建てられ、ミルクールの巨匠達に 関する貴重な資料を保管展示しています。一方、巨匠達の工房・住居として使われていた建物にネームプ レートを設置し、観光案内コースを設置するなど、弦楽器・弓製作を市の観光資源としても活用しようと工夫しています。このように弦楽器製作教育や観光施策に国や市など行政は力を入れています。 一方、ミルクールの現代作家達も協力しあいながら努力を続けています。今後が非常に楽しみな街です。

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