ストラディブログ
弦の細道
July 8, 2013

石川県-小松市・石川県立航空プラザ-小松空港 2013.07.01

スタッフが小松空港まで送迎に出向いた折、少し時間があったので数年ぶりに石川県立航空プラザを再訪しました。

石川県立航空プラザ。
入口で配布されているパンフレット。
航空プラザは日本海側唯一の航空機の博物館。"見て、聞いて、さわって航空文化を体験できる施設"です。1995年11月17日に開館。入館料は無料(ただし、館内にある一部操縦シミュレーション装置の利用は有料)。現在の休館日は原則として年末年始のみとのことですが、見学する際は事前にホームページで確認することをお薦めします。

石川県立航空プラザ。
同じく、航空プラザにあった小松市のパンフレット。"乗りもののまち"小松市が紹介されています。乗り物好きのみならず、科学技術に興味がある人や、好奇心あふれる勉強好きの子供、親子連れや家族も楽しく学び遊ぶことができる施設が市内にたくさんあります。

石川県立航空プラザ。
建物入口付近の様子です。北陸唯一の航空博物館であり、航空の地である石川県小松市に相応しい重要施設です。
大人だけでなく幼児や家族連れも航空プラザの意義を理解し、航空機や科学技術・産業に興味を持つきっかけになるような施設として、さらに充実していって欲しいと思います。

同じく、石川県立航空プラザ。
"民間航空ダイキャストモデル展"が開催中でした(開催期間は2013年4月27日から8月31日まで)。航空機好き、とりわけ模型ファンには「眼の毒」かも知れません。
以下、主な展示機を入口から順にご紹介します。どれも大変貴重なものばかりで、美しい姿で保存されいます。※紹介文は展示機の説明パネルなどより要約。
※写真撮影と掲載は特に注意事項が無いようですが、もし問題がある場合はご指摘ください。
※なお、撮影にはフラッシュや三脚等は一切使用していません。

ピッツS-2B(ピッツスペシャル)。
アメリカのCurtis Pitts氏(1915-2005、カーチス・ピッツ)が原型設計、第二次世界大戦中の1944年に初飛行。その後、1960年代から曲技飛行の競技会で活躍するようになり、ロシアのYak50が登場するまではトップの座を占めていました。
展示機は1996年にアメリカのAviat社(アビアット)が製造したもので、整備すればまだ十分に飛行できるそうです。飛行中の事故で亡くなった岩崎貴弘氏の愛機だったもの。小松市が岩崎貴弘氏のご遺族に貸与を依頼し、航空自衛隊OBの方たちを中心としたボランティアの協力で、プラザ入りが実現しました。プラザ入りにあたって、岩崎氏が創設したアクロバットチーム"エアロック"発足時の塗装に塗り替えられました。2010年4月より公開中。
"がんばろう!日本"という文字は、東日本大震災後、2011年に追加され、塗装も一部変更されたようです。"2013"などの年号は毎年、更新されています。

ピッツS-2B(ピッツスペシャル)そっくりに作られた子供向けの足こぎ玩具。
実物の隣に置いてあります。※乗ったり触ったりすることはできません。

岩崎貴弘氏(1951-2005、いわさき・たかひろ)は、航空自衛隊の第一線戦闘機パイロットとして活躍し1995年に2等空佐で退官。エアーショーパイロットを目指して渡米し、エアーショー第一人者のSean D.Tucker 氏(1952-、ショーン・D・タッカー)に弟子入りし、ライセンスを取得。帰国後、日本国内唯一の民間アクロバットチーム"エアロック"を創設し、1996年に正式デビュー。ピッツS-2Bを愛機としました。しかし、2005年4月21日、アクロバット飛行の訓練中に墜落し亡くなりました。なお、"ロック"は氏の戦闘機パイロット時代のTAC(タック)ネーム(戦闘機パイロット同士が上空で迅速に意志疎通するための名前)だそうです。氏の愛称である"ロック岩崎"も、ここからつけられました。岩崎貴弘氏の死後、その遺志を継いで、"エアロック"2番機のパイロットだったサニー横山氏(本名は横山真隆氏。1976-、よこやま・さねたか)が中心となってチームを存続させ活動を再開。しかし、2010年2月、機体修復に多大な費用がかかる事態が発生し、一方でチームの権利者の意向もあり、チーム存続を断念せざるを得なくなり、同年3月に解散しました。
■サニー横山 Official Page

YS-11型シミュレーター。
ご存知、日本の戦後初の国産機であるYS-11A型(ワイエスいちいち)プロペラ旅客機のフライトシミュータで、全日空でパイロット教育用に実際に使用されていた実物です。この展示機は1970年に製造され、2000年までの約30年間に渡って使用されました。全日空から寄贈され、2001年にプラザ入りしました。設備の都合上、一部装置を省略化し、前面スクリーンに前方光景CGを投影するよう改修した上で、入館者でも利用できるシミュレータとして公開されています。
YS-11型は、試験機の初飛行は1962年。何度かの改良を経て、その優秀性が実証され182機が製造された。2006年に国内民間航空会社から引退。現在も国内で一部が活躍するほか、海外に売却されて活躍している機体もあるそうです。生産数が少なく経済的には成功したとは言えない残念な結果となりましたが、性能的には非常に優秀で、日本が戦後産んだ名機中の名機です。※シミュレータは有料。利用は入口の係員に申込みが必要。

航空管制装置。
一昔前まで使用されていた実物です。プラザでの展示にあたり簡易シミュレータに改修されています。今では旧型となりましたが、来館者が簡単な操作を体験して基本的な航空管制をイメージできるようになっています。

エアーラインコーナー。
小松空港に飛来したことがある航空会社が、多くの模型やパネル、座席や制服の実物などを使って紹介されています。小松空港は地方空港ではありますが、国内外から非常に多くの航空機が飛来していることにあらためて気付かされました。

エバンスVP-1。
富山県の野口俊明氏が、アメリカのエバンス・エアクラフト社から図面と材料を購入し、6年の歳月をかけて製作したもの。1986年に石川県羽咋市の千里浜海岸で初飛行に成功。ご自宅で分解・保存されていましたが、後に石川県立航空プラザ(以下、プラザと略記)に寄贈。

ピラタスPC-6Bターボポーター。
多用途軽飛行機。スイスの小さな飛行場でも使用できるように設計されたSTOL(短距離離着陸)機。
この展示機は南極観測用に2機輸入されたうちの1機で、南極で約11年間に渡って使用されたものだそうです。

TH-55J練習ヘリコプター、OH-6J観測ヘリコプター。画像左:TH-55Jは、アメリカのヒューズ269観測用ヘリコプター(1961年)が原型で、アメリカ陸軍がTH-55の名称で約800機所有していたもの。日本では陸上自衛隊がTH-55Jという名称で練習用に採用。画像右:OH-6Jは、ヒューズ社のOH-6が原型(1963年)。OH-6は、1965年にアメリカ陸軍が採用し、1,439機が製造されました。日本では陸上自衛隊が導入し94機保有していました。他にもヒューズ500型の名称で民間で多数使用されているそうです。

T-33A。
ロッキード社のF-80C戦闘機を2人乗りに改修したTF-80C(1948年初飛行)がT-33Aに改称されたもの。アメリカだけでなく西側諸国でも多数使用され、世界で最も多く生産されたジェット練習機です。日本でも、川崎重工業がOEM生産したものも含め278機が航空自衛隊に採用され、1955年から2000年までの45年間に渡り練習教育用など多用途に使用されてきました。
この展示機は国産化されたもので、1995年の引退後にプラザ入りしました。

同じく、T-33A。

F-2支援戦闘機の機種部分モックアップ。
三菱重工業が生産したF-2支援戦闘機複座型の機種部分の実物大木製模型。モックアップとは、航空機も含め、乗り物などの設計時に検証のためによく作られる模型です。このモックアップは現存する唯一のもので、2000年に航空自衛隊小松基地からプラザに貸与されました。
F-2は、ジェネラル・ダイナミクス社(現在はロッキード・マーティン社)のF-16戦闘機をベースに日本が主体となって開発した支援戦闘機です(現在は区分廃止により戦闘機と呼ばれるようです)。F-16にはない素材や機能がもりこまれました。1995年に初飛行。航空自衛隊のみが採用し、2000年から部隊配備開始。94機が調達されました。現在は三沢基地、築城基地、松島基地などに配備され日本防衛の重責を担っています。
なお、2011年3月11日の東日本大震災で、松島基地に訓練用に配備されていた18機が津波で水没してしまいました。被害が大きかったものを除いた6機が修理される計画(さらに増やすことも検討)だそうです。

F-104Jスターファイター戦闘機。
ロッキード社が開発した名戦闘機(原型XF-104の初飛行は1954年、F-104の初飛行は1958年)です。最大速度はマッハ2(音速の2倍)。航空自衛隊でも一部が日本向けに改修されたF-104Jとして採用され、1962年から約23年間に渡り防空任務についていました。
展示機は1962年に三菱重工業が国産化製造し、新田原(にゅうたばる)基地や那覇基地に配備されていたもの。1985年に同型機最後の1機としての日本一周記念飛行を最後に現役を引退。1995年にプラザ入りしました。

同じく、F-104Jスターファイター戦闘機。

三菱T-2超音速高等練習機。
T-2は三菱重工業が製造した国産初の超音速高等練習機(戦闘も可能)で、1971年に初飛行。航空自衛隊で採用され、96機が製造されました。
展示機は1979年製造。1986年に第2世代の"ブルーインパルス"用に改修され全国各地の航空ショーで活躍したものです。1995年に同隊より退役し、試験飛行用になりました。2000年に用途廃止となり、プラザ入りしました。

同じく、三菱T-2超音速高等練習機。
機体尾部のエンジン排気口付近にアレスティングフック=(着陸時に滑走路に張られた制動用ワイヤーにひっかけ短距離で停止させるもの。航空母艦に積載される艦載機では着艦時に使用されますが、T-4のような陸上機の場合は万が一の時の緊急制動用)=や、曲技飛行用機特有のスモークノズル=(向かって右側の排気口外に見える銀色の金属パイプ)=などが見えます。曲技飛行時にスモークノズルからスモーク用のスピンドル油(潤滑油の一種)が操縦席の操作で噴出し、色がついた煙が流れる仕組みだそうです。

同じく、三菱T-2超音速高等練習機。
エンジン部分です。整備用カバーが外され、エンジンを見ることができます。

同じく、石川県立航空プラザ。
航空自衛隊の展示機群です。展示機によっては、操縦席部分を外から見ることができる見学用階段が置かれています。※機体の上へは、危険なので絶対に上らないでください。

ドルニエDo28-A。
Do28-Aはドイツのドルニエ社製のSTOL(短距離離着陸)双発多用途機です。試作機Do28の初飛行は1959年。量産型Do28-Aなど各種派生型が1970年代まで約350機も生産され、ドイツ連邦空軍・海軍など世界各国の軍隊で連絡任務などに使われました。Do28-Dは世界の約30カ国で現在も使われています。独特のエンジン構造の珍機ですが、現在も多数活躍しているように優秀な性能の名機でもあります。

同じく、ドルニエDo28-A。
展示機は1962年に製造され、同年に1機だけ日本に輸入されたもので、"国内唯一の貴重な飛行文化財"といわれす。国連の依頼でネパール奥地の航空写真測量に派遣されました。
その後、北海道航空など国内で活躍。1980年に引退。引退後は日本各地で展示されました。1999年に所有者である"立川に航空博物館を創る会"から小松市に預託されることになり、修復の上、プラザ入りしました。

ビーチクラフトE33練習機。
アメリカでセスナ社と並ぶ軽飛行機メーカのビーチクラフト社が製造した傑作機。航空史に残る名機として有名です。V型尾翼で有名なボナンザをベースに開発され、派生型も含め多数が生産されました。優れた経済性・安定した操縦性・堅牢な信頼性が高く評価されて世界中で使われ、現在も活躍しています。日本でも、運輸省(現在の国土交通省)の航空大学校で1969年から1993年まで22機がパイロット養成の訓練機として使われました。現在も国内では数機が使用されています。
展示機は1968年製造。航空大学校で使用され、1992年に引退。石川県に売却され、1995年にプラザ入りしました。
■独立行政法人 航空大学校

富士T-3初等練習機。
航空自衛隊の練習機です。富士重工業が自社製造の海上自衛隊練習機KW-2Bをベースに、航空自衛隊向けに複座化した試作機を開発。1974年に初飛行し、航空自衛隊に制式採用されました。3番目の国産練習機としてT-3と命名され、1978年に初飛行。1982年まで80機が生産されました。2006年に後継機である富士T-7に交代しました。
展示機は2007年に引退し、翌年にプラザ入りしました。

人力飛行機「ゼフィルス・ベータ」号。
女性パイロットによる国内最長飛行記録を出した機体です。天井から吊り下げられた形で展示されています。
1997年に、お茶の水女子大学の学生(当時)・村岡ちひろ氏(当時19歳)が、この機体で1,004.252m、滑空時間3分3秒の公式飛行記録を樹立しました。記録達成後にプロジェクトチームは解散し、その機体は翌1998年にプラザ入りしました。
人力飛行機は、人力だけでペダルを踏みプロペラを回転させて浮揚させるものです。ちなみにTV番組の「鳥人間コンテスト」は高所に設けられた発進台から落下滑空を開始する独特の方式で、国内外の公認記録となる人力飛行機とは機体構造も難易度も全く異なります。

1Fの幼児向け遊具場。
このような遊具場ができて、一昔前に訪れた時と館内1F部分の展示が大きく変ったようです。幼児向けの大型遊具が展示スペースの半分以上を占めるようになっています。そのため、屋外展示になった航空機や、展示内容が変更されたものもあります。。
県営の無料施設ということで、幼児向けの遊技場という要素も必要なのかも知れません。もちろん、賛否両論、いろいろなご意見はあるでしょう。

同じく、石川県立航空プラザ。1Fの幼児向け遊具場。
近所の親子連れらしい数人が、しばらくの間、遊んでいました。
なお、ここで出会った航空ファンらしき方によれば、売店の品揃えも子供向け中心。ここでしか入手困難な大人向けやファン向けのものを期待していたそうですが。

民間航空ダイキャストモデル展のコーナー。
2013年8月31日まで開催されている企画展のコーナー。小松市在住の三浦俊明氏のコレクションから3000点近くの航空機模型が展示されています。同氏が長年にわたって収集した貴重なコレクション群を、県外への転居を機に地元への感謝の意で「石川県立航空プラザ」へ寄贈されたとのこと。
館内にいた航空ファンらしき方から聞いたところ、航空機の模型は結構高価(手のひらサイズの小さなものでも数千円はする)で、特に民間航空のものは塗装デザインの種類が非常に多いそうです。その上、少数が販売された後は再販されないものが多く、すぐ入手困難になるレアなプレミアものばかりだとか。この展示も、展示数の多さもさることながら貴重なものが多く含まれていて、航空機模型ファンには垂涎ものばかりだと聞きました。子供向けの玩具とは全く異なる、奥がとても深い趣味の世界のようです。

宇宙開発情報のコーナー。
宣伝や紹介用ポスターが掲示されています。航空機や宇宙開発に興味がある人には必見かも知れません。科学技術立国・日本だったはずの我が国。"2位じゃ駄目なんですか?"という「有名」な台詞もありましたが、宇宙や航空開発に関する感心興味を一人でも多くの日本人が持って欲しいものです。

2Fの展示コーナー。
模型や、飛行原理を説明する装置、説明パネル、数多くの精密模型が展示され、航空開発の歴史などがわかりやすく紹介されています。

同じく、展示コーナー。
航空機模型の数の多さは特筆すべきかも知れません。
アメリカのスミソニアン・航空宇宙博物館のような規模と内容は日本では難しい(とりわけ地方自治体では不可能でしょう)でしょうが、模型展示主体でも航空機模型博物館的な楽しみ方もあるかも知れません。
■Smithsonian's National Air and Space Museum

東善作氏の紹介コーナー。東善作氏(1893-1967、あずま・ぜんさく)は、三大陸単独横断飛行に成功した石川県出身の飛行家です。1893年に石川県の旧羽咋郡で生まれ、少年期に実業家を目指して単身で朝鮮半島に渡り、帰国後は苦学して勉学を続けました。金沢の北陸毎日新聞社に入社。飛行機に魅せられ飛行家への転進を決意。若くして渡米。航空学校で勉強しました。1930年に中古機を購入し、単独でロサンゼルス空港を出発。アメリカ、ヨーロッパ、アジアの三大陸を横断飛行。70日間をかけ約18,000を飛行し、東京立川飛行場に到着。その冒険は世界中から賞賛され、航空史に偉人の一人として名前を残しました。
1934年、日本で航空学校を設立するために帰国。戦後は実業に尽力し、ウラン開発に興味を持ちました。1955年に日本初のウラン鉱脈を発見、1957年にウラン鉱業株式会社を設立。しかし、同年、74歳で亡くなりました。

二宮忠八翁の紹介コーナー。二宮忠八氏(1866-1936、にのみや・ちゅうはち)は、日本で飛行原理を研究した先駆けと評価される偉人の一人です。1866年に愛媛県の富裕な商家に生まれましたが、13歳の時に父が亡くなり別の商家に奉公に出ました。しかし、奉公生活に不満を感じ、幼少時より興味を持っていたカラクリや凧作りを始めました。物理や科学に深い興味を持ち、測量・製図の知識も見につけました。1887年に陸軍に徴兵され、演習の帰途に偶然カラスを見て飛行機のヒントを得ました。その後、動物や昆虫を観察し飛行原理を研究。ライト兄弟が初飛行に成功する12年前、1891年に"カラス型1号器"という模型で飛行テストに成功。次に玉虫から着想を得た人力飛行機の模型を製作。

玉虫型飛行器の復元模型。日清戦争に従軍した彼は、飛行機の必要性を痛感。設計図と上申書を軍部に提出しましたが、採用されませんでした。そのため、陸軍を退官し薬業界に入り研究を続けました。しかし、1903年にライト兄弟が成功したニュースを1908年に聞き(日本にニュースが伝わるのが遅かったため)、夢を断念してしまいました。後に、1915年、増加していた航空犠牲者を慰霊する飛行機神社を京都に建立し自ら神主となりました。
後に、設計通りに実際に飛行できたかどうかはともかく、原理的には正しかったことが認められ、1922年に軍部より表彰されました。数々の表彰もうけ、1927年には勲章も叙せられました。
■二宮忠八飛行館ホームページ

同じく、玉虫型飛行器の復元模型。説明パネル。
「器」とは二宮忠八氏がつけた用語だそうです。
パネルにもありますが、歴史に「もし(IF)」は禁句ではありますが、もし当時の軍部が二宮忠八氏の上申書を受理して国を挙げて開発に着手していれば航空機の歴史は大きく変ったかも知れません。当然、日本の歴史も変ったかも。

小松海軍航空隊のコーナー。
小松空港・航空自衛隊小松基地の前身、旧日本海軍の小松海軍航空隊が当時の資料や図面、模型などで紹介されています。

時間と空間。
プラザの2F展示室の最後を飾るパネルです。"夢は時空を超えて"とあります。簡単なパネルですが、人類が、そして日本人が失ってはならない"夢"の大事さを感じさせてくれるのではないでしょうか。プラザ見学の最後を飾るのには相応しい一角かも知れません。

2Fの展望窓より見た1F展示フロア。
1F展示フロアの様子がよくわかります。
小松基地でも活躍したF-4EJ戦闘機や、現時点での主力戦闘機F-15Jもいずれプラザで保存展示されるものと期待します。

同じく、2Fよりみた1F展示フロア。
ピッツS-2B(ピッツスペシャル)。

航空自衛隊・戦闘機パイロットの服装。
プラザ入り口に展示されている実物。
小松基地の第306飛行隊の第13代隊長・2等空佐、山田貴史氏が着用されていたもののようです。

富士KM-2初等練習機。
プラザの入口傍で屋外展示されています。
富士KM-2初等練習機は、ビークラフト社のものをベースに富士重工業が製造。海上自衛隊で活躍したもの。かってはプラザ屋内で展示されていました。

対潜哨戒ヘリコプターHSS-2B(愛称ちどり)。
HSS-2Bは米国シコルスキー社開発、三菱重工業が製造したもの。海上自衛隊で活躍しました。
これもプラザの入口傍で屋外展示されており、機内を見学できます。※操縦席部分には入ることができませんが、機内より見ることはできます。

EVバス。
小松市が導入した蓄電池で駆動する最新型EVバスです。EVバスの運行は国内ではまだ珍しいです。現時点での最新技術を結集した駆動部分に相応しく、斬新なデザインの外見。車内は宇宙船をイメージしています。小松駅-小松空港-航空プラザ間を周回するコースと、空港プラザを起点に小松空港周辺を周遊するコースがあります。※メンテナンスのため、代替の通常型バスが運行される日や、周遊コースが運休する日もあります。乗車を希望される方は、事前に小松市のホームページで確認することをお薦め。
■EVバス-小松市

小松空港。
航空自衛隊小松基地と民間航空が滑走路を共用、航空管制は航空自衛隊が行なう軍民共用空港です。多くの国内便、国際便が乗り入れる日本海側最大の拠点空港です。また、F-15Jなど航空自衛隊の一線部隊が配備され、日本防衛の重要拠点でもあります。
空港のターミナルビルは便数の割には少しコンパクトな感じですが、金沢城の城郭を思わせる古風な外観が印象的です。

「弁慶・富樫像」と「智仁勇、石碑」。
空港ターミナルビル前の駐車場傍にあります。空港敷地入り口にも同じ意匠の大きめの像が複数あります。安宅関跡、小松駅前など小松市内にいくつかあるものと同じデザイン。

小松空港・ほっとプラザ北陸。
空港ターミナルビル1Fに設けられた工芸物産品の展示コーナーで、休憩もできます。

同じく、小松空港・ほっとプラザ北陸。
工芸美術品は、郷土の誇りでしょう。その素晴らしさは全国屈指の最高レベルのものであり、世界の宝だと思います。

空の駅こまつ情報発信コーナー。
空港ターミナルビル1Fにあるコーナーで、ポスターパネルや、現在開催中のイベント情報などが紹介されています。ガラズケースの中に航空機ダイキャストモデルが展示され、航空プラザで開催中の展示会が紹介されていました。

小松空港の送迎デッキ。※送迎デッキへの入場は有料。

同じく、小松空港の送迎デッキ。
滑走路の向こう側が航空自衛隊の各種施設です。

同じく、小松空港の送迎デッキ。
規模は小さいですが、全国の空港と比較すると、送迎や航空機見学には便利です。

スカイパークこまつ翼。
小松空港に隣接した運動公園です。

同じく、スカイパークこまつ翼。
小松空港を離着陸する航空機を近くで見ることができます。特にタキシング中(滑走路へ移動中)の旅客機が、眼とほぼ同じ高さで近くを陸上移動する姿は見ものでしょう。ただし、滑走路との高低差や柵などがあるため、航空機写真は結構撮りにくいとは思われます。肉眼のみで楽しむには問題ありませんが。※滑走路との間には侵入防止の柵があるので絶対に近づかないでください。
※カメラや携帯電話で航空機(鉄道も含め乗り物全般ですが)を撮影する際は、絶対にフラッシュはたかないで下さい。パイロットや乗員の目が眩んでしまい、大事故の原因となる惧れがあります。撮影の際は事前にフラッシュを必ずオフにしてください。

同じく、スカイパークこまつ翼。
航空機の離陸シーン。

氷室饅頭。
小松空港の売店で、"7月1日は「氷室の日」"という看板に惹かれて社への土産に購入。
加賀藩では、白山の雪を氷室に蓄え、「氷室の翔日」(現在の7月1日)に将軍家へ献上する慣わしがあったそうです。これが一般に広がって、夏越し(なごし)の体力を養うために酒饅頭を「氷室の饅頭」として食べるようになったとか。
この饅頭は、小松市の「むらなか菓子舗」のもの。保存料などを使わない生物(賞味期限は製造の翌日まで)で、自然で上品な香りと味でした。

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