| 最終更新日:2009.06.10 |
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楽器ひとくちメモ: VIGNERON |
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証明書はこちら 楽器ひとくちメモ: VOIRIN |
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短めで弾きやすく良い弓をお探しの方、小柄な方や女性にお薦め。 |
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| セミオールドの分数弓で現存するものは珍しいです。状態は良好。オールド楽器に相応しい弓をお探しの方にもお薦め。 | |||||||||
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弓製作の巨匠フランソワ・トゥルテ(1748−1835)と双璧をなすドミニク・ペカット(1810−1874)の作品です。状態は良好。世界中のプロ奏者があこがれる名品です。 証明書付 |
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| ユージン・ニコラス・サルトリ(1871-1946)のオリジナルです。パーフェクトな状態の逸品です。これほどの状態のものはまずありません。 証明書はこちら 楽器ひとくちメモ: SARTORY |
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| 珍しい7/8用の弓です。小ぶりなバイオリンに合う良い弓をお探しの方にお薦め。 DODDについてはこちら |
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| P.GUILLAUMEのシルバーの中でもゴールドに近い性能のものです。P.GUILLAUMEのオリジナルケースをお付けします。 ※下段のケース写真をクリックすると拡大画像が表示されます。
また、彼は最良のヘルナン材(フェルナンブコ材)だけを使用し、材料を選択するために彼自らブラジルを定期的に訪問し、豊富な材料をストックしているそうです。彼はIPCI(「国際ペルナンブコ保護運動」=弓用材料を産出する森林保護を推進する協会)でも活躍しています。 彼の技術は現代において卓越したものであり、素晴らしい性能と完璧な仕上げによる美しさで非常に高い評価を得ています。またオールド弓の鑑定でも超一流とされ国際的に評価されています。
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P.GUILLAUMEゴールドの新作(2006年)です。この価格でお出しできる最後の1本になりました。お早めにお問合せください。 |
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C.N.BAZIN(チャールス・ニコラス・バザン 1847-1915)の作品です。バザンは19世紀中頃から20世紀初頭にかけて活躍した製作者です。 証明書付 |
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| 証明書付 | |||||||||||
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1910年頃にH.R.PFRETZSHNERが製作したPECCATTEモデルです。PECCATTEのオリジナルではないためこの価格でご提供できますが、PFRETZSHNERの卓越した技術により巧みに作られており、非常に優れたものです。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Hermann Richard PfretzschnerはMarkneukirchenの弓工作技術を父であるCarl Richard Pfretzschnerから習いました。1874年の1年間、彼はパリのJ.B.Vuillaume(1798-1875)の工房で働きました。この比較的短い修行期間は、彼自身のキャリアだけではなく、ドイツの弓製作全体にも影響を与えました。 1880年、彼はMarkneukirchenで自分の工房「H.R.PFRETZSHNER」を開き、1914年に息子達HermannとBertholdに引き継ぐまでの間、数々の名誉ある称号を授けられるなど、大変大きな成功をおさめました。息子達も父親の技術をきちんと継承し、「H.R.PFRETZSHNER」の名を守りました。 現在は弟Bertholdの孫が「H.R.PFRETZSHNER」を受け継ぎ、現在でも非常に高品質の作品を産み出し続けています。 "H.R.PFRETZSHNER"一族系図はこちら
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| 東京藝術大学教授・バイオリン奏者 浦川宜也氏の感想 | |||||||||||
![]() 所用で東京藝術大学教授・浦川宜也氏を訪問させていただいた折、試奏していただきました。 浦川宜也氏の感想 「フレッチナー作と言われなければ、ペカットのオリジナルで十分通用するかも知れない。素晴らしい弓だ」 ※バイオリンは浦川氏の愛器です。 浦川宜也氏の経歴はこちら |
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| 東京藝術大学教授・バイオリン奏者 浦川宜也氏の感想 | |||||||||||
![]() 当社へ遊びに来られた東京藝術大学教授・浦川宜也氏に試奏していただきました。 浦川宜也氏の感想 「この価格帯のものでは非常に良い弓だと思う」 浦川宜也氏の経歴はこちら |
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| ドイツの有名メーカのものです。 | |||||||||||
| 東京藝術大学教授・バイオリン奏者 浦川宜也氏の感想 | |||||||||||
![]() 当社へ遊びに来られた東京藝術大学教授・浦川宜也氏に試奏していただきました。 浦川宜也氏の感想 「しっとりとした良い感じの音が出る。スティックのコシもしっかりしている」 浦川宜也氏の経歴はこちら |
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| 重量は61.5gで標準的です。こしのある良い材料を使用しています。状態良好。 証明書はこちら(添付画像) ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 |
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Bernard Millantの1998年頃の作品です。現代フレンチ弓の第一人者による近作。こしがあって弾きやすく、良い弓です。状態もパーフェクト。 この内容のMillant製弓で、お手頃な価格でご提供できるのものは珍しいです。お問合せはお早めに。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Bernard Millant(1929-、ベルナルド・ミラン) Jean Jacques Millantの従弟。父であるMax Millantは弦楽器製作者で、叔父Roger Millantとともにパリで活動していました。 Mirecourtで修行し、MORIZOT工房でも弓製作を学びました。従兄であるJean Jacques Millantの死後、フレンチ弓製作の第一人者として今も活躍しています。卓越した弓製作者としてだけでなく、フレンチ弓の権威ある鑑定者としても有名です。 Jean Jacques Millant(1928-1998、ジャン・ジャック・ミラン) 1928年、パリ生まれ。父Roger Millantはパリに工房を持つ弦楽器製作者でした。1946年から1948年までの2年間、MirecourtのMORIZOT工房で修行しました。修行後にパリへ戻り1950年頃まで、父の工房で叔父Max Millanとともに働きました。その後、パリで独立。1970年、フランス最優秀職人賞(「Un de Meilleurs Ouvriers de France」)を受賞。その後、同賞の審査員を務めました。1998年、69歳で逝去。 Dominique Peccatteスクールの有力な弓製作者で、20世紀フランスを代表する名工の一人でした。従弟のBernard Millantと同スタイルである「Millant」ラベルの弓を製作しました。 フレンチ弓の優れた技術を継承するとともに、独自の工夫による材料の選択・重さ・強さ・柔軟性の絶妙なコンビネーションでPeccatteの名品に匹敵するものを製作しました。近年まで活躍していたこともあり、その弓を愛用しているプロ演奏家は少なくありません。彼は20世紀後半で最も偉大な弓製作者として評価されています。
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Johannes S.Finkel(J.S・フィンケル)氏の2004年作です。当社で毛替済。完璧な状態です。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
Siegfried Finkel(1927-) 1868年より続く弓メーカの名門「FINKEL-WEIDHAAS」(フィンケル・ヴァイドバス)の三代目で、Paul WeidhaasとともにEwald Weidhaasの下で働き、Paul Weidhaasの養子になりました。彼もまたEwald Weidhaasの技術を引き継ぎ、Peccatteモデルのドイツバージョンとも言える優れた弓を作りました。彼の一族は1952年にMarkneukirchenからスイスのBrienzに移住し、その地で工房を構えました。 Paul Weidhaas (1894-1962) 父Ewald Weidhaasより、Markneukirchenにおいて1908年から1911年までの間、弓製作を学びました。1911年から1913年までBreslauのE.Liebichの工房で働き、1913年から1915年までHamburgのWinterlingの工房で働きました。1918年にHamburgのマイスター試験に合格。その後、Markneukirchenに戻り、父の工房の経営を引き継ぎました。1920年代と30年代、彼は自身の知識を深めるため、とても長い旅に出ました。HollandでM.Moller、Vedral、J.Stuberと一緒に働きました。パリではBauschとVictor Francois Fetique(1872-1933)の工房で学びました。この旅で得た経験は彼の仕事にはっきりとした影響を与え、外国とのビジネスを立ち上げることに役立ちました。弓の高い品質と、優れたビジネスセンスにより、彼は20世紀中盤のドイツ弓メーカーの中で最も重要な一人となりました。 Ewald Weidhaas(1869-1939)は、Markneukirchenの弓製作者です。Paul Weidhaasの父であり、Siegfried Finkelの義理の祖父、Johannes S.Finkelの義理の曾祖父にあたります。 参考:「Deutsche Bogenmacher」他
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| KNOLL社の当代Hartmut Knoll氏製作の3/4用弓です。分数3/4用弓で良いものをお探しの方にお薦め。 ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
Alfred Knoll(1909-1980) Knoll(クノール)社初代です。Prexで弓製作を学び、技能資格を得た後、1932年にOberprex(Regnitzlosau)で家族経営のKnoll工房を創業しました。 Hartmut Knoll(1937-) Hartmut Knoll氏は1937年に生まれ、1953年から1955年までの間、父の工房で修行しました。修行終了後、当時より10人の職人を雇うまでになっていた父の工房で働きました。1966年、ニュルンベルクHWK(Handwerkskammer)の援助を受けて弓製作者としての技能資格を取りました。1977年に工房の経営を引き継ぎ、「Alfred Knoll Bogen-Fabrikation」の名で今日も知られるKnoll社を築き上げました。 彼lは工房の経営と品質管理に努める一方、自身の作品も作り続けています。コンクールにも数多く出展し、高い評価を得ています。1983年に、Wiesbadenで行われたGeorg-Hesse-Stiftungコンクールで金賞を受賞しています。 Gerald Reinhard Knoll(1968-) Hartmut Knoll氏の息子でKnoll社三代目です。1985年、ミッテンバルトの弦楽器製作学校に入り1988年に修了。1990年から2年間、父の工房で修行しました。彼は父の元で長く修行しましたが、DresdenのC.Hans-KarlSchmidtの下で学んだことも重要な影響を与えているようです。ミッテンバルトとマンチェスターのコンクールで良い評価を得ました。1999年にはパリの国際コンクールで特別賞を受賞しています。1998年にChemnitzのHWKで弓製作者の技能資格を得ました。その後、彼は父の工房で、彼自身の名前で製作活動を続けています。 |
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1880年頃の作品。卓越した技術を持ち、Tourteなどフレンチ弓の名品にも匹敵するものを作った工房の作品です。状態良好。 証明書はこちら ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 August Richard Weichold(リヒャルト・バイコルト、1823-1902) August Richard Weicholdは、1823年生まれ。父親はDresdenで弦楽器工房を構えていたAugust Friedrich Weichold(1800-1862)です。August Richard WeicholdはMarkneukirchenでCarl G.Pfretzschenerに師事し弦楽器製造を学びました。パリ周辺まで旅行した修行遍歴の時代(彼は、旅先で・・・の生徒としばしば自称しました)を経て、彼はDresdenの父の工房に戻りました。 父August Friedrich Weicholdは、その工房をRampischen Gasseで1834年に開きました。移転する1850年までの工房第一期より、彼は弓製作者として記録されています。しかし残念ながら、弓の作例は確認されていません。1851年、August Friedrich WeicholdはSachsen教会の正式弦楽器製作者の称号を得ました。 1859年にAugust Richard Weicholdが父の工房を引き継ぎ、1862年に父が亡くなった後には父の地位も継承しました。 1860年頃から1890年までに製作された弓には「A.R.WEICHOLD DRESDEN.」の刻印があります。これらの弓はTourteモデルに基づいていますが、Weichord工房が外に外注したか、あるいは工房で働いていた別の職人が作ったと明らかに認められるものもあります。 1882年、August Richard Weicholdは健康上の理由で製作現場から退き、後に工房を継承するLiebhold Meyerに経営を任せました。この後、工房は「Richard Weichold」の名前で登録されました。同時期以降、作品の多くに「R.WEICHOLD DRESDEN und TOURTE IMITATION」の刻印が押されるようになりました。 1893年、Liebhold Meyerは工房の商権をMarkneukirchenの楽器商August Paulusに売りました。1903年にAugust Richard Weicholdが亡くなると、供給元(Hoflieferant)のタイトルも継承しました。1891年までに工房はPrager通りに移転し、1945年に第二次世界大戦の爆撃(戦争末期に連合国軍によって為された無差別爆撃。これによりドレスデンの街は徹底的に破壊され多くの市民が亡くなりました)で破壊されるまで、その地にありました。 「Richard Weichold Dresden」ブランドのビジネスはAugust Paulusに引き継がれ成功をおさめました。Weicholdブランドは1932年にAugust Paulusの息子Rudolf Paulusが引き継がれ、1945年に工房が灰燼に帰すまで使われました。 Richard Weicholdが作成したTourteモデル弓は、19世紀末のドイツ製では最も優れたものの一つとして高く評価されていました。最高傑作とされるものはTourteの名品に迫るとまで言われたようです。残念ながら現存するものは多くありません。 |
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| C.N.BAZIN(チャールス・ニコラス・バザン 1847-1915)工房の1900年頃の作品です。部品も含め全てオリジナルのままです。状態は完璧。明るいクリアな音がします。 証明書はこちら ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Charles Nicolas Bazin II(チャールズ・ニコラス・バザン2世 1847-1915) ミルクール生まれ。父親は弓製作者Francois Xavier Bazin。少年時代に父親の工房に入り働き始めました。1865年頃、父親が亡くなったため、父の友人だったClaude Charles Nicolas Husson(1823-1872)の支援を受けながら、若くして工房を引き継ぎました。その後もミルクールで製作活動を続け成功をおさめるとともに、Charles Louis Bazin(1881-1953 彼の三男)、 Victor Francois Fetique(ヴィクトル・フランソワ・フェティーク 1872-1933)、Louis Joseph Morizot(ルイ・ジョゼフ・モリゾー 1874-1957)など数多くの弟子を育てました。また弓ならびに楽器製作者の地位向上に努め、楽器製作学校の設立も目指しました(残念ながら彼の存命中には実現しませんでした)。人望も厚く、町議会の議員に選ばれたほどです。 |
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| HILL最高ランクの弓です。スティックの断面は八角形。パーツは全てオリジナルです。状態は非常に良いです。 比較的お手頃な価格でご提供できますので、お問合せはお早めに。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 W.E.HILL&SONS 1880年から1992年まで続いたロンドンの弦楽器・弓製作工房です。「William Hill & Sons」あるいは「William E. Hill & Sons」という名でも知られています。多くの優秀な製作者がこの工房で働き、Hillsは弓製作工房として(バイオリンやチェロなど弦楽器製作でも同様)非常に有名でした。 なお数種類の刻印がありますが、製品ランクの高い順にW.E.HILLS&SONS、HILL&SONS、HILLと刻印が使い分けられています。 また、製作者を示す印がつけられているものが多いです。(下記参照)
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| JOSEPH ALFRED LAMYの1910年頃の作品です。息子GEORGE LEON LAMYと共同で製作したものと思われます。状態は完璧。こしがしっかりしており、良い弓です。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Joseph Alfred Lamy(1850-1919) 優れた製作者を複数輩出したLamy一族でも最も高く評価されています。ミルクールに生まれ、少年時代にClaude Charles Nicolas Hussonの工房に徒弟に入り弓製作の修行をしました。その頃、同じ工房にClaude Charles Nicolas Hussonの息子Charles Claude Husson(1846-c1915)やJoseph Arthur Vigneronがおり、一緒に修行しました。1868年頃、パリ郊外シャトー・ティエリー(Chateau-Thierry)のPierre Louis Gautrotの工房へ移り、そこでJoseph Voirinと出会いました。 1876年頃にパリに出て、Francois Nicolas Voirin(1833-1885)の工房に入り、師匠Voirinの死後に独立。1889年頃にEugene Nicolas Sartoryが弟子入りしています。彼は19世紀から20世紀にかけ活躍した偉大な弓製作者の1人です。弓製作史上ではVoirinとSartoryを繋ぐ極めて重要な役割を果たしました。 なお、彼には5人の子供がいましたが、弓製作者になったのは三男Hippolyte Camille Lamy(1875-1942)と、末っ子Georges Leon Lamy(1881-1915)の2人だけでした。弓製作者としてのLamy一族を代表する父親に対して、三男Hippolyte Camilleは長男、末っ子Georges Leonは次男と称されています。 Hippolyte Camille Lamy(1875-1942) Aisneで生まれました。15歳頃より父Joseph Alfred Lamy(1850-1919)の工房で本格的な修行を開始し、20歳頃には父親の助手として働いていました。1905年頃より独自のスタイルを徐々に追求し始めました。1910年に戦争で召集され製作活動を中断。召集解除後、父親の工房に戻りました。1919年、父親の死去により彼が工房を引き継ぎました。1830年頃、50歳台後半に入るにつれて視力が低下してしまい、作品にも影響が現れ始めているとされています。 彼は、夭逝した弟と異なり、独自の作風による作品を多く残しました。その評価は概ね父親のそれに次ぐものとされています。 Georges Leon Lamy(1881-1915) 1881年、パリで生まれました。兄Hippolyte Camille Lamyと共に父親の下で修行。その後、父の工房で助手として製作活動を続けました。1914年に第一次世界大戦で召集され、1915年に34歳で戦死しました。彼は生涯独身のままでした。彼の作品は父親のものと非常に良く似ており、共同作業で製作したものも多く、また父親の刻印のみを使用しました。若くして亡くなったことで作品が非常に少ない上に、このような事情で彼の手になるものも大部分が父親の作品と認識されてしまっているようです。 Alfred Lamy(1886-1922) 弓製作者Joseph Jean Baptise Lamyの息子。Joseph Alfred Lamy(1850-1919)の甥です。Charles Nicolas Bazin II(1847-1915)の工房で修行を開始。1901年、NancyのJacquot工房で働きました。1906年、Eugene Cuniot(1861-1910、通称CUNIOT-HURY)の工房へ移りました。1911年、CUNIOT-HURY工房から独立。1914年、戦争で召集され、毒ガスで負傷してしまいました。毒ガスの後遺症により帰還後も健康が回復せず苦労したようです。1919年頃には自分の工房を構えていたようですが、健康問題もあって商売はあまりうまくいかず、Laberteの下請けなどをして生活していたようです。1922年、36歳で夭逝しました。 彼は非常に少ない作品しか残せませんでしたが、残存するものは非常に丁寧に仕上げられた高品質のもので、高く評価されています。 |
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JOSEPH ALFRED LAMYの甥にあたるALFRED LAMYの1920年頃の作品です。重さが59.5gで少し軽めです。女性や小柄な方にお薦め。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Alfred Lamy(1886-1922) 弓製作者Joseph Jean Baptise Lamyの息子。Joseph Alfred Lamy(1850-1919)の甥です。Charles Nicolas Bazin II(1847-1915)の工房で修行を開始。1901年、NancyのJacquot工房で働きました。1906年、Eugene Cuniot(1861-1910、通称CUNIOT-HURY)の工房へ移りました。1911年、CUNIOT-HURY工房から独立。1914年、戦争で召集され、毒ガスで負傷してしまいました。毒ガスの後遺症により帰還後も健康が回復せず苦労したようです。1919年頃には自分の工房を構えていたようですが、健康問題もあって商売はあまりうまくいかず、Laberteの下請けなどをして生活していたようです。1922年、36歳で夭逝しました。 彼は非常に少ない作品しか残せませんでしたが、残存するものは非常に丁寧に仕上げられた高品質のもので、高く評価されています。 Joseph Alfred Lamy(1850-1919) 優れた製作者を複数輩出したLamy一族でも最も高く評価されています。ミルクールに生まれ、少年時代にClaude Charles Nicolas Hussonの工房に徒弟に入り弓製作の修行をしました。その頃、同じ工房にClaude Charles Nicolas Hussonの息子Charles Claude Husson(1846-c1915)やJoseph Arthur Vigneronがおり、一緒に修行しました。1868年頃、パリ郊外シャトー・ティエリー(Chateau-Thierry)のPierre Louis Gautrotの工房へ移り、そこでJoseph Voirinと出会いました。 1876年頃にパリに出て、Francois Nicolas Voirin(1833-1885)の工房に入り、師匠Voirinの死後に独立。1889年頃にEugene Nicolas Sartoryが弟子入りしています。彼は19世紀から20世紀にかけ活躍した偉大な弓製作者の1人です。弓製作史上ではVoirinとSartoryを繋ぐ極めて重要な役割を果たしました。 なお、彼には5人の子供がいましたが、弓製作者になったのは三男Hippolyte Camille Lamy(1875-1942)と、末っ子Georges Leon Lamy(1881-1915)の2人だけでした。弓製作者としてのLamy一族を代表する父親に対して、三男Hippolyte Camilleは長男、末っ子Georges Leonは次男と称されています。 |
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| 刻印はありませんが、W.E.HILL&SONS工房の1930年から1940年頃の作品です。状態は完璧。重さは60.5gで標準的、スティックの断面は八角形。どの楽器にも素直に応じてくれる素晴らしい弓です。 リーズナブルな価格でご提供できます。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 W.E.HILL&SONS 1880年から1992年まで続いたロンドンの弦楽器・弓製作工房です。「William Hill & Sons」あるいは「William E. Hill & Sons」という名でも知られています。多くの優秀な製作者がこの工房で働き、Hillsは弓製作工房として(バイオリンやチェロなど弦楽器製作でも同様)非常に有名でした。 なお数種類の刻印がありますが、製品ランクの高い順にW.E.HILLS&SONS、HILL&SONS、HILLと刻印が使い分けられています。 また、製作者を示す印がつけられているものが多いです。(下記参照)
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| LEON PIQUEの刻印がある1910年から1920年頃の作品です。Mirecourutで作られたものだと思われます。重量は60.5gで標準的。どの楽器にも順応します。良いフレンチ弓をお手頃な価格でお探しの方にお薦め。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 |
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E.SARTORY PARISの刻印がありますが、ドイツ製で1920年頃の作品です。状態はパーフェクト。少し軽めなので、女性や小柄な方にお薦め。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 |
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| 八角弓。ビオラ弓としては軽めで、弾力がある良い弓です。 | |||||||||||
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LUIS MORIZOTのオリジナルです。重量が68.6gとビオラ弓としてはやや軽めで、バランスが良く弾きやすい作品です。粘りのある音を出せます。弓によってこれだけ音が変わるのかと思わせてくれる逸品。女性の方にもお薦め。※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 LUIS MORIZOT(1874-1957):弓製作の巨匠ユージン・サルトリに師事。独立後はサルトリのライバルとして活躍した、フランスを代表する弓専門の大作家です。 RAFFINの証明書あり |
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非常に良い状態です。フロッグ等の金具がゴールドで、美しい外見の弓です。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
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| 東京藝術大学教授・バイオリン奏者 浦川宜也氏の感想 | |||||||||||
![]() 当社へ遊びに来られた東京藝術大学教授・浦川宜也氏に試奏していただきました。 浦川宜也氏の感想 「少し軽めだ。女性に向いていると思う」 浦川宜也氏の経歴はこちら |
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| Johannes S.Finkel(J.S・フィンケル)氏の2007年作です。良い材料を使用しています。バランスならびにファーストトーンと反応が良く、弾き易い弓です。 お問合せはお早めに。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
Siegfried Finkel(1927-) 1868年より続く弓メーカの名門「FINKEL-WEIDHAAS」(フィンケル・ヴァイドバス)の三代目で、Paul WeidhaasとともにEwald Weidhaasの下で働き、Paul Weidhaasの養子になりました。彼もまたEwald Weidhaasの技術を引き継ぎ、Peccatteモデルのドイツバージョンとも言える優れた弓を作りました。彼の一族は1952年にMarkneukirchenからスイスのBrienzに移住し、その地で工房を構えました。 Paul Weidhaas (1894-1962) 父Ewald Weidhaasより、Markneukirchenにおいて1908年から1911年までの間、弓製作を学びました。1911年から1913年までBreslauのE.Liebichの工房で働き、1913年から1915年までHamburgのWinterlingの工房で働きました。1918年にHamburgのマイスター試験に合格。その後、Markneukirchenに戻り、父の工房の経営を引き継ぎました。1920年代と30年代、彼は自身の知識を深めるため、とても長い旅に出ました。HollandでM.Moller、Vedral、J.Stuberと一緒に働きました。パリではBauschとVictor Francois Fetique(1872-1933)の工房で学びました。この旅で得た経験は彼の仕事にはっきりとした影響を与え、外国とのビジネスを立ち上げることに役立ちました。弓の高い品質と、優れたビジネスセンスにより、彼は20世紀中盤のドイツ弓メーカーの中で最も重要な一人となりました。 Ewald Weidhaas(1869-1939)は、Markneukirchenの弓製作者です。Paul Weidhaasの父であり、Siegfried Finkelの義理の祖父、Johannes S.Finkelの義理の曾祖父にあたります。 参考:「Deutsche Bogenmacher」他
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1855年、FRENCH・MIRECOURT製。軽めで腰があり状態が良い弓をお探しの方にお薦め。これほどの弓は滅多に見つかりません。ロンドンの有名ディーラ・ANDREAS WOYWODの正式な証明書付です。 証明書はこちら 楽器ひとくちメモ: VIGNERON |
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| Prellはドイツ人ですが、サルトリの工房でも仕事をしていました証明書はフランス製になっておりサルトリの特徴を持っていますが、Prellの刻印が残っている非常に珍しい弓で価格も手頃です。質的にはサルトリと同等品です。 証明書はこちら |
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| アンサンブル金沢首席チェロ奏者 ルドヴィート・カンタ氏の感想 | |||||||||||
![]() 2004年製。 カンタ氏の感想 「フレンチ弓の新作としては、とても良いです」 証明書付 |
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ドイツの優良メーカの近作です。良い材料を使用しており、バランスが非常に良い弓です。この価格帯では完璧と言ってよい作品です。
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このメーカとしては珍しく銀糸を使用。チップはシルバーで高級感あふれる仕上になっています。非常に良い材料を使用しており、とても弾き易い弓です。 |
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| チェロ奏者 ダニエル・クネアー氏の感想 | |||||||||
![]() 当社へ遊びに来られたドイツのプロチェロ奏者、ダニエル・クネアー氏に試奏していただきました。 クネアー氏の感想 「非常に好きな弓です。素晴らしいと思う」 |
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H.R.PFRETZSHNERの1930年頃の作品です。状態が非常に良いです。バランスが良く軽くて弾き易いので、女性や小柄な方にお薦めです。古い弓で状態が良く手頃な価格のものをお探しの方にお薦め。お問合せはお早めに。 ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 証明書はこちら Hermann Richard Pfretzschner はMarkneukirchenの弓工作技術を父であるCarl Richard Pfretzschnerから習いました。1874年の1年間、彼はパリのJ.B.Vuillaume(1798-1875)の工房で働きました。この比較的短い修行期間は、彼自身のキャリアだけではなく、ドイツの弓製作全体にも影響を与えました。 1880年、彼はMarkneukirchenで自分の工房「H.R.PFRETZSHNER」を開き、1914年に息子達HermannとBertholdに引き継ぐまでの間、数々の名誉ある称号を授けられるなど、大変大きな成功をおさめました。息子達も父親の技術をきちんと継承し、「H.R.PFRETZSHNER」の名を守りました。 現在は弟Bertholdの孫が「H.R.PFRETZSHNER」を受け継ぎ、現在でも非常に高品質の作品を産み出し続けています。 "H.R.PFRETZSHNER"一族系図はこちら
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現代の名工Pierre Guillaume氏による逸品です。卓越した技術を駆使し一本一本丁寧に仕上げているものです。オールドの名品と比較しても遜色ありません。良い弓をお探しの方に自信を持ってお薦めします。GUILLAUMEの専用ケース(下画像)付き。
Pierre Guillaume氏はブリュッセルを拠点に活躍する現代最高の弓製作者です。彼はフランスで、C.A.Bazin、L.Morizot、J.Ouchard達に師事し、1980年にJack Bernardにその才能を見出されました。1986年、楽器製作者Jan Strickと共にMaison Bernardの工房を引継ぎました。 現在はブリュッセルのアトリエで、ヴァイオリンやチェロ用の弓を製作しています。彼は弦楽器・弓製作マイスター国際同盟(EILA)会員であり、オールド弓の研究・鑑定ならびに修理・修復、弓製作者の育成でも中心的な役割を果たしています。 また、彼は最良のヘルナン材(フェルナンブコ材)だけを使用し、材料を選択するために彼自らブラジルを定期的に訪問し、豊富な材料をストックしているそうです。彼はIPCI(「国際ペルナンブコ保護運動」=弓用材料を産出する森林保護を推進する協会)でも活躍しています。 彼の技術は現代において卓越したものであり、素晴らしい性能と完璧な仕上げによる美しさで非常に高い評価を得ています。またオールド弓の鑑定でも超一流とされ国際的に評価されています。
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H.R.PFRETZSHNERが製作したものです。Hermann Richard Pfretzschner がJ.B.Vuillaumeの工房で修行していた時、同じ工房にFrancois Nicolas Voirinがいました。PfretzschnerはVoirinの卓越した技術だけではなくその人格にも深い感銘を覚えました。その尊敬の念を込めて、Voirinの了承の下、彼の名前で作成したもので、知る人ぞ知る有名な弓です。 証明書付 ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Francois Nicolas Voirin(フランシス・ニコラ・ヴォアラン、1833-1885)はJ.B.Vuillaume(Jean Baptiste Vuillaume、1798-1875)の従兄弟で、パリにあったVuillaumeの工房で指導的役割を担っていました。Charles Francois Peccatteに対する指導やJoseph Alfred Lamyとの師弟関係など、弓製作の歴史でも重要な役割を果たしました。 楽器ひとくちメモ: VOIRIN |
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Ewald Weidhaas(エヴァルト・ヴァイドバス)の1900年から1920年頃の作品です。軽めでバランスが良く弾き易い弓です。女性や小柄な方にお薦め。状態良好です。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Ewald Weidhaas(1869-1939)は、Markneukirchenの弓製作者です。Paul Weidhaasの父であり、Siegfried Finkelの義理の祖父、Johannes S.Finkelの義理の曾祖父にあたります。 Paul Weidhaas (1894-1962) 父Ewald Weidhaasより、Markneukirchenにおいて1908年から1911年までの間、弓製作を学びました。1911年から1913年までBreslauのE.Liebichの工房で働き、1913年から1915年までHamburgのWinterlingの工房で働きました。1918年にHamburgのマイスター試験に合格。その後、Markneukirchenに戻り、父の工房の経営を引き継ぎました。1920年代と30年代、彼は自身の知識を深めるため、とても長い旅に出ました。HollandでM.Moller、Vedral、J.Stuberと一緒に働きました。パリではBauschとVictor Francois Fetique(1872-1933)の工房で学びました。この旅で得た経験は彼の仕事にはっきりとした影響を与え、外国とのビジネスを立ち上げることに役立ちました。弓の高い品質と、優れたビジネスセンスにより、彼は20世紀中盤のドイツ弓メーカーの中で最も重要な一人となりました。 Siegfried Finkel(1927-) 1868年より続く弓メーカの名門「FINKEL-WEIDHAAS」(フィンケル・ヴァイドバス)の三代目で、Paul WeidhaasとともにEwald Weidhaasの下で働き、Paul Weidhaasの養子になりました。彼もまたEwald Weidhaasの技術を引き継ぎ、Peccatteモデルのドイツバージョンとも言える優れた弓を作りました。彼の一族は1952年にMarkneukirchenからスイスのBrienzに移住し、その地で工房を構えました。 四代目Johannes S.Finkel(1947-)は父Siegfried Finkelの下で修行した後、ロンドンのJ&A Beare、ロサンゼルスのHans Weisshaar、フィラデルフィアのWilliam Moennig & Sonの工房で修行を重ね、1975年にスイスに戻り現在に至ります。 参考:「Deutsche Bogenmacher」他
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REICHEL(ライヒェル)のワークショップ作品で、1800年代のものです。状態は良好です。軽めでバランスが良く弾き易いので、女性や小柄な方にお薦め。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 |
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| 1970年頃の作品です。良い材料を使用しており、完璧な状態です。スティックの断面は八角形で底面が若干広め、PFRETZSHNERオリジナルの形態です。 特別価格でご提供します。この価格帯のものをお探しの方はお早めにお問合せください。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Hermann Richard Pfretzschner はMarkneukirchenの弓工作技術を父であるCarl Richard Pfretzschnerから習いました。1874年の1年間、彼はパリのJ.B.Vuillaume(1798-1875)の工房で働きました。この比較的短い修行期間は、彼自身のキャリアだけではなく、ドイツの弓製作全体にも影響を与えました。 1880年、彼はMarkneukirchenで自分の工房「H.R.PFRETZSHNER」を開き、1914年に息子達HermannとBertholdに引き継ぐまでの間、数々の名誉ある称号を授けられるなど、大変大きな成功をおさめました。息子達も父親の技術をきちんと継承し、「H.R.PFRETZSHNER」の名を守りました。 現在は弟Bertholdの孫が「H.R.PFRETZSHNER」を受け継ぎ、現在でも非常に高品質の作品を産み出し続けています。 "H.R.PFRETZSHNER"一族系図はこちら
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1968年頃の作品です。良い材料を使用しています。重量は約81gで標準的なものです。状態は極めて良好です。この年代でこれだけ良い状態のものとしては破格の価格でご提供できます。お問合せはお早めに。 Johannes O.Paulusの仕事はMarkneukirchenの伝統的な作風に準じたものです。彼の弓には通常「JOHS.O.PAULUS」と刻印され、その前後に品質を示す星印があります。フロッグには羽を拡げた鷲の印章と彼の名前が刻印されています。また銀製のリング等に別の印章が刻印されているのも特徴です。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 PAULUSはドイツ・マルクノイキルヘン(Markneukirchen)の弓工房です。現在に至るまでPAULUS一族四代によって受け継がれてきました。 弓製作者としての初代Otto Paulusは1891年にMarkneukirchenの楽器工場を営む家に生まれました。彼は弓製作を専門に学び、6年間の修行期間中、August Rau(1866-1925) より高度で貴重な知識を得ました。その後、1923年には自身の会社を興し、1948年にマイスター試験に合格しました。 二代目Johannes O.Paulusは1916年生まれ。父親から弓製作の指導を受け、1930年から1934年までの間、MarkneukirchenのC.A.Schuster※工房で弓製作を学びました。修行を終えたJohannes O.Paulusは、第二次世界大戦で召集された後に捕虜となった長い中断を挟みながら、C.A.Schuster工房で働き続けました。捕虜生活から解放された後、彼はC.A.Schuster工房に復帰し、工房が閉鎖される1955年まで働きました。1950年、彼はMarkneukirchenの弓製作でのマイスター試験を全てパスしました。1955年にC.A.Schuster工房が閉鎖された時、彼と彼の父親はC.A.Schuster工房の部屋を引き継ぎ、彼ら自身のブランドで自分達の工房を始めました。Johannes O.Paulusは実績を評価され「Anerkannter Kunstschaffender」という称号を与えられました。本来の仕事に加え、彼はMarkneukirchenの弓製作マイスター試験の審査委員会メンバーでもありました。78歳で第一線からは引退しましたが、息子Gunter A. Paulusへの指導を続けました。 三代目Gunter A. Paulus(1949-2006)は幼少時から弓製作者に憧れ、父の的確な指導を受けました。1972年にマイスター試験に合格、1973年まで父の工房で働き、その後独立しました。 四代目Jens Paulusは1970年生まれ。彼もまた先代に習い弓製作者の道を歩みました。彼は父に弟子入りし、1992年に弓製作マイスター試験をパスしました。2000年から、Gunter A. PaulusとJens Paulusの親子で工房を続けていまたが、2006年にGunter A. Paulusが死去。現在は四代目Jens Paulusが工房を引き継ぎ活躍しています。 参考:「Deutsche Bogenmacher 1945-2000」他
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NEUDORFERの2004年作です。リングなど金属部品にゴールドを使用。良い材料を使い、優れた技術で仕上げてある逸品です。ファーストトーンが良く、的確に反応します。 国内ではあまり流通していませんが、非常に評価が高い作者です。作者の年齢からすると最後の作品の一つとなるかも知れません。興味のある方はお早めにお問い合わせください。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
Rudolf Neudorfer(1936-) Rudolf Neudorfer氏は弦楽器製作者Neudorfer一族の三代目です。祖父はJosef Neudorfer、父はKarl Neudorferです。 彼は1936年に生まれ、1951年から1953年まで、H.SchmirlerとB.Pecharが指導するLuby(Schonbach)の楽器製作学校で弓製作を学びました。その後、Kraslice(Graslitz)の製造業向けビジネススクールでも学び、当時のチェコスロヴァキア国営「Cremona」社に常務として雇われました。 1964年、彼はドイツ連邦共和国(FRG、当時の西ドイツ)に移住しました。1966年、ニュルンベルクHWK(Handwerkskammer)の援助を受けて弓製作者としての技能資格を取りました。その後、1966年から2年間、Bubenreuthの0.Seifert工房で主任を務め、1968年から1973年まではBrienz(スイス)のSiegfried Finkel工房で働きました。1973年に、E.Wernerがかって所有していたBubenreuthの工房を引き継ぎ独立、現在に至ります。 彼は国際的な弓コンクールにも積極的に参加し、評価を得ました。1980年ならびに82年、アメリカのVSA(Violin Society of America)弓コンクールで彼の弓は高く評価されました。1983年と86年、Wiesbadenの国内コンクールで、彼のバイオリン弓は金賞を受賞しました。 彼の作品は、Tourte、PeccatteやSartoryなどのフレンチ弓の作風をモデルにしているものが多いです。また、イギリスのJ.Tubbsのそれをモデルにしたものもあります。 なお、彼の弟子の一人に、2008年に若くして亡くなった杉藤浩司氏がいました。 ※故・杉藤浩司氏については杉藤楽弓社サイトをご覧ください。 |
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| リングなど金属部品にゴールドを使用。フロッグはオリジナルです。状態は非常に良好。重量は少し軽めです。 女性や小柄な方で良いフレンチ弓をお探しの方にお薦め。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 ※この弓は以前より掲載していますが、今回、写真差し替え、作者説明を追加しました。 Victor Francois Fetique(ヴィクトル・フランソワ・フェティーク、1872-1933) Victor Francois Fetiqueは、1872年にミルクールで生まれました。 なお、弟Jules Fetique(ジュール・フェティーク、1875-1951) も優れた弓製作者でした。息子Marcel Gaston Fetique(1899-1977)も父の指導を受け弓製作者になりました。 Victor Francois Fetiqueは、父Charles Claude Fetique(1853-1911) ならびにHusson一族の工房で修行し、Charles Nicolas BazinU(1847-1915)の工房で研鑽を積みました。 1901年、Bazin工房での修行を終え、パリに出てCARESSA&FRANCAIS工房で12年間働きました。1913年、41歳の時にパリで独立しました。独立後まもなく、高い評価を得て成功。注文数が彼一人ではこなしきれなくなったため、弟をはじめ、ミルクールの中心的な製作者に委託生産をしてもらったこともあるようです。1933年、60歳で亡くなりました。 彼は若くして卓越した才能を発揮し、Bazin工房での研鑽を経て一級の弓製作者になりました。フランスの優秀な職人に贈られる「Unedes meilleurs ouvriers de France」も受賞しています。一方、フランス弓の伝統を引き継ぐ優秀な弟子を多く育てました。彼の作品は非常に高く評価されていますが、本人(ならびに愛弟子)作、工房作、委託生産品(ミルクール製を彼が仕上げたもの)の3種類があるとされています。本人作はもちろんですが、息子や甥Andre Georges Richaume(アンドレ・リショーム、1905-1966)と共同で製作したものも高く評価されています。 |
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| 1900年頃の作品です。BEARE社がHILL工房に製作を委託したものの一本で、これらについてはヨーロッパでは通称Hill-Bowとして知られているものです。スティックの断面は八角形、リングはシルバーです。状態は非常に良好。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 J&A BEARE(John & Arthur Beare) J&A BEARE社は、1892創業の有名な楽器商です。
W.E.HILL&SONS 1880年から1992年まで続いたロンドンの弦楽器・弓製作工房です。「William Hill & Sons」あるいは「William E. Hill & Sons」という名でも知られています。多くの優秀な製作者がこの工房で働き、Hillsは弓製作工房として(バイオリンやチェロなど弦楽器製作でも同様)非常に有名でした。
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現代の名工Pierre Guillaume氏の2008年作です。腰がしっかりしており、フレンチ弓の正当な伝統を受け継ぐ名品です。卓越した技術を駆使し丁寧に仕上げているもので、オールドの名品と比較しても遜色ありません。試奏していただければ、この弓の価値をおわかりいただけと思います。良い弓をお探しの方に自信を持ってお薦めします。 ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
また、彼は最良のヘルナン材(フェルナンブコ材)だけを使用し、材料を選択するために彼自らブラジルを定期的に訪問し、豊富な材料をストックしているそうです。彼はIPCI(「国際ペルナンブコ保護運動」=弓用材料を産出する森林保護を推進する協会)でも活躍しています。 彼の技術は現代において卓越したものであり、素晴らしい性能と完璧な仕上げによる美しさで非常に高い評価を得ています。またオールド弓の鑑定でも超一流とされ国際的に評価されています。
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| KNOLL社の当代Hartmut Knoll氏の2007年作(一つ星)です。腰がしっかりしています。お手頃な価格で良い弓をお探しの方にお薦め。 KNOLL社オリジナルクロス附属。 ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
Alfred Knoll(1909-1980) Knoll(クノール)社初代です。Prexで弓製作を学び、技能資格を得た後、1932年にOberprex(Regnitzlosau)で家族経営のKnoll工房を創業しました。 Hartmut Knoll(1937-) Hartmut Knoll氏は1937年に生まれ、1953年から1955年までの間、父の工房で修行しました。修行終了後、当時より10人の職人を雇うまでになっていた父の工房で働きました。1966年、ニュルンベルクHWK(Handwerkskammer)の援助を受けて弓製作者としての技能資格を取りました。1977年に工房の経営を引き継ぎ、「Alfred Knoll Bogen-Fabrikation」の名で今日も知られるKnoll社を築き上げました。 彼lは工房の経営と品質管理に努める一方、自身の作品も作り続けています。コンクールにも数多く出展し、高い評価を得ています。1983年に、Wiesbadenで行われたGeorg-Hesse-Stiftungコンクールで金賞を受賞しています。 Gerald Reinhard Knoll(1968-) Hartmut Knoll氏の息子でKnoll社三代目です。1985年、ミッテンバルトの弦楽器製作学校に入り1988年に修了。1990年から2年間、父の工房で修行しました。彼は父の元で長く修行しましたが、DresdenのC.Hans-KarlSchmidtの下で学んだことも重要な影響を与えているようです。ミッテンバルトとマンチェスターのコンクールで良い評価を得ました。1999年にはパリの国際コンクールで特別賞を受賞しています。1998年にChemnitzのHWKで弓製作者の技能資格を得ました。その後、彼は父の工房で、彼自身の名前で製作活動を続けています。 |
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| KNOLL社の初代Arfred Knollの作品です。3/4用で、しっかりした良いものをお探しの方にお薦めします。 ※画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 Alfred Knoll(1909-1980) Knoll(クノール)社初代です。Prexで弓製作を学び、技能資格を得た後、1932年にOberprex(Regnitzlosau)で家族経営のKnoll工房を創業しました。 Hartmut Knoll(1937-) Hartmut Knoll氏は1937年に生まれ、1953年から1955年までの間、父の工房で修行しました。修行終了後、当時より10人の職人を雇うまでになっていた父の工房で働きました。1966年、ニュルンベルクHWK(Handwerkskammer)の援助を受けて弓製作者としての技能資格を取りました。1977年に工房の経営を引き継ぎ、「Alfred Knoll Bogen-Fabrikation」の名で今日も知られるKnoll社を築き上げました。 彼は工房の経営と品質管理に努める一方、自身の作品も作り続けています。コンクールにも数多く出展し、高い評価を得ています。1983年に、Wiesbadenで行われたGeorg-Hesse-Stiftungコンクールで金賞を受賞しています。 Gerald Reinhard Knoll(1968-) Hartmut Knoll氏の息子でKnoll社三代目です。1985年、ミッテンバルトの弦楽器製作学校に入り1988年に修了。1990年から2年間、父の工房で修行しました。彼は父の元で長く修行しましたが、DresdenのC.Hans-KarlSchmidtの下で学んだことも重要な影響を与えているようです。ミッテンバルトとマンチェスターのコンクールで良い評価を得ました。1999年にはパリの国際コンクールで特別賞を受賞しています。1998年にChemnitzのHWKで弓製作者の技能資格を得ました。その後、彼は父の工房で、彼自身の名前で製作活動を続けています。 |
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Finkel工房の2004年作です。こしがしっかりしています。この価格帯では非常に良い弓です。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
Siegfried Finkel(1927-) 1868年より続く弓メーカの名門「FINKEL-WEIDHAAS」(フィンケル・ヴァイドバス)の三代目で、Paul WeidhaasとともにEwald Weidhaasの下で働き、Paul Weidhaasの養子になりました。彼もまたEwald Weidhaasの技術を引き継ぎ、Peccatteモデルのドイツバージョンとも言える優れた弓を作りました。彼の一族は1952年にMarkneukirchenからスイスのBrienzに移住し、その地で工房を構えました。 Paul Weidhaas (1894-1962) 父Ewald Weidhaasより、Markneukirchenにおいて1908年から1911年までの間、弓製作を学びました。1911年から1913年までBreslauのE.Liebichの工房で働き、1913年から1915年までHamburgのWinterlingの工房で働きました。1918年にHamburgのマイスター試験に合格。その後、Markneukirchenに戻り、父の工房の経営を引き継ぎました。1920年代と30年代、彼は自身の知識を深めるため、とても長い旅に出ました。HollandでM.Moller、Vedral、J.Stuberと一緒に働きました。パリではBauschとVictor Francois Fetique(1872-1933)の工房で学びました。この旅で得た経験は彼の仕事にはっきりとした影響を与え、外国とのビジネスを立ち上げることに役立ちました。弓の高い品質と、優れたビジネスセンスにより、彼は20世紀中盤のドイツ弓メーカーの中で最も重要な一人となりました。 Ewald Weidhaas(1869-1939)は、Markneukirchenの弓製作者です。Paul Weidhaasの父であり、Siegfried Finkelの義理の祖父、Johannes S.Finkelの義理の曾祖父にあたります。 参考:「Deutsche Bogenmacher」他
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| HILLのチェロ弓です。完璧な状態。レスポンスが良く、濃い音がします。 これだけの状態のHILL弓で、この価格帯のものは珍しいです。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 W.E.HILL&SONS 1880年から1992年まで続いたロンドンの弦楽器・弓製作工房です。「William Hill & Sons」あるいは「William E. Hill & Sons」という名でも知られています。多くの優秀な製作者がこの工房で働き、Hillsは弓製作工房として(バイオリンやチェロなど弦楽器製作でも同様)非常に有名でした。 なお数種類の刻印がありますが、製品ランクの高い順にW.E.HILLS&SONS、HILL&SONS、HILLと刻印が使い分けられています。 また、製作者を示す印がつけられているものが多いです。(下記参照)
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| ドイツ製で1930年頃の作品です。スティックのフロッグ上部分に刻印がありますが判然とせず作者は不明です。こしのしっかりした弓で状態はパーフェクト。重さは80gで、柔らかい音がします。状態が良く、柔らかい音がする弓をお探しの方にお薦め。 円高ピーク時に仕入たため、リーズナブルな価格でご提供できます。お問合せはお早めに。 証明書あり ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 |
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| Finkel工房の2007年作です。ゴールドラベルのチェロ弓は珍しく、国内では入手困難です。ゴールドに相応しく非常に良い材料を使用し完璧に仕上げられた逸品です。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
Siegfried Finkel(1927-) 1868年より続く弓メーカの名門「FINKEL-WEIDHAAS」(フィンケル・ヴァイドバス)の三代目で、Paul WeidhaasとともにEwald Weidhaasの下で働き、Paul Weidhaasの養子になりました。彼もまたEwald Weidhaasの技術を引き継ぎ、Peccatteモデルのドイツバージョンとも言える優れた弓を作りました。彼の一族は1952年にMarkneukirchenからスイスのBrienzに移住し、その地で工房を構えました。 Paul Weidhaas (1894-1962) 父Ewald Weidhaasより、Markneukirchenにおいて1908年から1911年までの間、弓製作を学びました。1911年から1913年までBreslauのE.Liebichの工房で働き、1913年から1915年までHamburgのWinterlingの工房で働きました。1918年にHamburgのマイスター試験に合格。その後、Markneukirchenに戻り、父の工房の経営を引き継ぎました。1920年代と30年代、彼は自身の知識を深めるため、とても長い旅に出ました。HollandでM.Moller、Vedral、J.Stuberと一緒に働きました。パリではBauschとVictor Francois Fetique(1872-1933)の工房で学びました。この旅で得た経験は彼の仕事にはっきりとした影響を与え、外国とのビジネスを立ち上げることに役立ちました。弓の高い品質と、優れたビジネスセンスにより、彼は20世紀中盤のドイツ弓メーカーの中で最も重要な一人となりました。 Ewald Weidhaas(1869-1939)は、Markneukirchenの弓製作者です。Paul Weidhaasの父であり、Siegfried Finkelの義理の祖父、Johannes S.Finkelの義理の曾祖父にあたります。 参考:「Deutsche Bogenmacher」他
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1970年頃の作品で比較的新しいものです。良い材料を使用しています。 Johannes O.Paulusの仕事はMarkneukirchenの伝統的な作風に準じたものです。彼の弓には通常「JOHS.O.PAULUS」と刻印され、その前後に品質を示す星印があります。フロッグには羽を拡げた鷲の印章と彼の名前が刻印されています。また銀製のリング等に別の印章が刻印されているのも特徴です。 今回は特別にお手頃な価格でご提供します。お問合せはお早めに。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 PAULUSはドイツ・マルクノイキルヘン(Markneukirchen)の弓工房です。現在に至るまでPAULUS一族四代によって受け継がれてきました。 弓製作者としての初代Otto Paulusは1891年にMarkneukirchenの楽器工場を営む家に生まれました。彼は弓製作を専門に学び、6年間の修行期間中、August Rau(1866-1925) より高度で貴重な知識を得ました。その後、1923年には自身の会社を興し、1948年にマイスター試験に合格しました。 二代目Johannes O.Paulusは1916年生まれ。父親から弓製作の指導を受け、1930年から1934年までの間、MarkneukirchenのC.A.Schuster※工房で弓製作を学びました。修行を終えたJohannes O.Paulusは、第二次世界大戦で召集された後に捕虜となった長い中断を挟みながら、C.A.Schuster工房で働き続けました。捕虜生活から解放された後、彼はC.A.Schuster工房に復帰し、工房が閉鎖される1955年まで働きました。1950年、彼はMarkneukirchenの弓製作でのマイスター試験を全てパスしました。1955年にC.A.Schuster工房が閉鎖された時、彼と彼の父親はC.A.Schuster工房の部屋を引き継ぎ、彼ら自身のブランドで自分達の工房を始めました。Johannes O.Paulusは実績を評価され「Anerkannter Kunstschaffender」という称号を与えられました。本来の仕事に加え、彼はMarkneukirchenの弓製作マイスター試験の審査委員会メンバーでもありました。78歳で第一線からは引退しましたが、息子Gunter A. Paulusへの指導を続けました。 三代目Gunter A. Paulus(1949-2006)は幼少時から弓製作者に憧れ、父の的確な指導を受けました。1972年にマイスター試験に合格、1973年まで父の工房で働き、その後独立しました。 四代目Jens Paulusは1970年生まれ。彼もまた先代に習い弓製作者の道を歩みました。彼は父に弟子入りし、1992年に弓製作マイスター試験をパスしました。2000年から、Gunter A. PaulusとJens Paulusの親子で工房を続けていまたが、2006年にGunter A. Paulusが死去。現在は四代目Jens Paulusが工房を引き継ぎ活躍しています。 参考:「Deutsche Bogenmacher 1945-2000」他
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1970年頃の作品です。軽めなので女性や小柄な方にお薦め。スティックの断面が角棹で、こしがしっかりしています。状態は完璧です。この価格帯でこれだけのものはありません。お問合せはお早めに。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 DOLLING(デューリング)一族は弦楽器製作から出発しましたが、現在に至るまで四代、100年を超えて続いている弓メーカーとして高い名声を得ています。 1898年、Otto Dolling (1878-1966)が弓工房を始めました。二人の息子Kurt Dolling (1902-1952) とHeinz Dolling (1913-2001)は父の工房で修行しました。 1947年にマイスター試験に合格したHeinz Dollingは彼自身の工房をMarkneukirchenに近いWernitzgrunで立ち上げ、1965年にErlbachへ移りました。 Heinz Dollingの息子Heinz Bernd Dolling(1942-)は1959年から1961年までの間、父Heinz Dollingより弓製作を学び、1972年にマイスター試験に合格しました。彼は、1985年にWernitzgrunで自分の工房を開くまで、Erlbachの父の工房で働きました。 Bernd Dollingは息子Michael Dolling(1968-、父の工房で修行し1992年にマイスター試験合格)とともに現在も製作活動を続けています。 1998年、Heinz Bernd Dollingと父Heinz、息子Michaelは、Dolling一族の弓製作100周年記念を祝いました。Heinz Bernd Dollingと息子Michaelは記念として、フロッグに彼ら三人の写真を埋め込んだ特別品を100本作成しました。 DOLLINGの作風はTourte、Voirin、Sartoryなどフランスの巨匠達にならったものですが、KnopfやBauschなどドイツメーカーの作風も引き継いでいます。その作品は高い評価を受けており、David Oistrach、Yehudi Menuhin、Ruggiero Ricci、Erkki Rautioなど超一流の演奏家がHeinz Dollingの弓を使用しました。また、Bernd Dollingはベース奏者Ludwig Streicherと長年に渡り友情関係を保っています。 参考:「Deutsche Bogenmacher」他
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| スロヴァキア等の旧東欧圏製(作者はPETR HNILICAか?)かも知れません。現在のところ、作者等の詳細は不明ですが、良い材料を使用しており、コシもしっかりしています。標準的なサイズ、重量です。お手頃な価格でご提供できます。 ※上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます。 |
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| 以下4本のフレンチBASS Bowについて高騰前の旧レートでご提供します。お手頃な価格のフレンチBOWをお探しの方にお薦め。お問合せはお早めに。 |
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