最終更新日:2008.07.13





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弦楽器トピックスvol.8−VOIRIN

国内一般にはあまり知名度はないけれども、知る人ぞ知る名器についてご紹介します。
第8回はヴォアラン(F.N.VOIRIN)です。




Francois Nicolas Voirin(フランシス・ニコラ・ヴォアラン、1833-1885)はJean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の従兄弟で、パリのVuillaume工房で指導的役割を担っていました。Charles Francois Peccatteに対する指導やJoseph Alfred Lamyとの師弟関係など、弓製作の歴史でも重要な役割を果たしました。Francois Xavier Tourteをはじめとする19世紀の巨匠達の名品を研究し、それらの忠実なコピー製作も行いました。彼のコピー作品は当時「Modern Tourte」として知られていました。
フランス18-19世紀弓製作者の相関図
フランス・ミルクール公式サイト(仏・英語)
1833年10月1日、Francois Nicolas Voirinはミルクールに生まれました。父Nicolas Voirinはオルガン製作者でした。12歳の頃にJean Simonの工房へ徒弟に入り弓製作を学びました。1855年頃、パリに出て従兄弟Jean Baptiste Vuillaumeの工房で働き始めました。彼はVuillaumeの工房で指導的役割を担い、次の時代を担う多くの弓製作者に影響を与えました。その中には20世紀最高の弓製作者の一人として知られるCharles Francois Peccatteや、現在もその子孫がラベルを引き継いでいるHermann Richard Pfretzschner達がいます。この頃の彼の作品はVuillaumeのラベルで売られていました。

しかし、後にVuillaumeとの人間関係がうまくいかなくなり、1870年頃に独立しパリで工房を構えました。独立してまもなくLouis Joseph Thomassin(ルイ・ジョゼフ・トーマッサン 1856-c1904)が彼の工房に入りました。1876年頃にはJoseph Alfred Lamy(1850-1919)も彼の工房に入り、3人で共同して弓製作に従事しました。ただし、共同作業で製作するものと、Voirin独自で製作するものとは厳密に分けており、独自製作のものについては全て一人で完成させたようです。40代半ばにはTourteコピーを製作しています。1885年、52歳でパリで亡くなりました。彼の死後、数年間はLouis Joseph Thomassinが彼の工房を引き継いでいたようです。
未亡人となった妻はLamyらが工房で製作した弓にVoirinの刻印を押して販売したことがあります。それらは通称「Voirin de la Veuve」(ヴォアランの未亡人)と呼ばれています。 

Francois Nicolas Voirinの作品は、力強いPeccatte派(Dominique Peccatte)の作風と、柔らな印象のVuillaume風の長所を併せ持ったものとされています。また、Francois Xavier Tourteの作品を研究しコピーを製作する一方、Tourteとは根本的に異なるスタイルの弓を生み出しましたともされています。ヘッドはよりスリムで、スティックの反りはヘッドに近くなりました。スティックの強度が増すとともに、シャフトの特にヒール部分の厚みが減りました。中でも大きな改革はVuillaumeスタイルのフロッグを完成させたことです。彼の弓は卓越した品質をもっており、現在も数多くの偉大なソリスト達に愛用され続けています。

Joseph Voirin(ジョセフ・ヴォアラン 1837-c1895)も腕のある弓製作者になりましたが、兄とはやや異なった経歴を辿り、パリに出て若いうちに自分の工房を開きました。1867年頃、Pierre Louis Gautrotの工房で働くためパリ郊外のシャトー・ティエリー(Chateau-Thierry)へ行きました。その工房で彼の助手を勤めたのがJoseph Alfred Lamyでした。LamyがパリのFrancois Nicolas Voirin工房に移った後もGautrotの工房に残っていたようですが、晩年はパリに戻ったようです。兄とは異なり、Vuillaumeの工房には入りませんでした。彼の晩年はあまりよくわかっていませんが60歳代を目前にして亡くなったようです。
なお、Francois Nicolas Voirinの子供たちは誰も楽器製作に関わりませんでしたので、弓製作者としてのVoirinは兄弟一代で終わりました。


バイオリン弓 FRANCOIS NICOLAS VOIRIN c1875年 (弊社販売済品)
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Louis Joseph Thomassin(ルイ・ジョゼフ・トーマッサン 1856-c1904)
ミルクール生まれ。彼の一族は馬具職人でした。弓製作者Nicolas Francois Joseph Thomassinの甥にあたり、Francois Bazinの下で弓製作の修行をしたとされています。
少年時代にパリに出て、Francois Nicolas Voirinの工房で働き始めました。Voirinが亡くなった後、その工房を引き継ぎました。1891年頃に自分の工房を構えるようになりましたが、Voirinの技術を受け継ぎ、高い品質の弓を残しています。晩年の記録ははっきりしませんが、恐らく50歳を前にして何らかの理由で引退したようです。

Joseph Alfred Lamy(1850-1919)
優れた製作者を複数輩出したLamy一族でも最も高く評価されています。ミルクールに生まれ、少年時代にClaude Charles Nicolas Hussonの工房に徒弟に入り弓製作の修行をしました。その頃、同じ工房にClaude Charles Nicolas Hussonの息子Charles Claude Husson(1846-c1915)やJoseph Arthur Vigneronがおり、一緒に修行しました。1868年頃、パリ郊外シャトー・ティエリー(Chateau-Thierry)のPierre Louis Gautrotの工房へ移り、そこでJoseph Voirinと出会いました。
1876年頃にパリに出て、Francois Nicolas Voirin(1833-1885)の工房に入り、師匠Voirinの死後に独立。1889年頃にEugene Nicolas Sartoryが弟子入りしています。彼は19世紀から20世紀にかけ活躍した偉大な弓製作者の1人です。弓製作史上ではVoirinとSartoryを繋ぐ極めて重要な役割を果たしました。

Charles Nicolas Bazin II(チャールズ・ニコラス・バザン2世 1847-1915)
ミルクール生まれ。父親は弓製作者Francois Xavier Bazin。少年時代に父親の工房に入り働き始めました。1865年頃、父親が亡くなったため、父の友人だったClaude Charles Nicolas Husson(1823-1872)の支援を受けながら、若くして工房を引き継ぎました。その後もミルクールで製作活動を続け成功をおさめるとともに、Charles Louis Bazin(1881-1953 彼の三男)、 Victor Francois Fetique(ヴィクトル・フランソワ・フェティーク 1872-1933)、Louis Joseph Morizot(ルイ・ジョゼフ・モリゾー 1874-1957)など数多くの弟子を育てました。また弓ならびに楽器製作者の地位向上に努め、楽器製作学校の設立も目指しました(残念ながら彼の存命中には実現しませんでした)。人望も厚く、町議会の議員に選ばれたほどです。

Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)
1798年ミルクール生まれ。父Claude Francoisはバイオリン製作者でした。当時の例に漏れず少年時代に徒弟に入り弓をはじめとする楽器製作の修行を始めました。20歳の頃にパリに出て楽器職人としてNicolas Antoine Leteの店で雇われました。その後、頭角を現し、1823年に彼の作ったバイオリンがコンクールで入賞しました。その頃、彼は弓に注目し研究し始めたようです。ほどなくして、Jean Pierre Marie PersoitやDominique Peccattと共に働き始めました。 1827年、Leteから独立して工房を構えました。
彼がフランスの弓製作史において果たした役割が極めて大きいという点では異論がないところでしょう。彼自身は、弓製作者ではなくバイオリン製作者でした。しかし、彼は弓を重視し、弓の性能向上のために数々の工夫をしました。彼自身は一切製作せず、発案した物の製作は工房の優秀な職人達にさせていました。彼の工房で生み出した弓の中で特に卓越したものは「腕の延長」のようである評され、彼の研究や発案が当時いかに先進的なものであったかを示しています。

Jean Pierre Marie Persoit(ジャン・ピエール・ペルソワ c1783-1854?)
正確な生年ならびに生地はわかっていません。また修行した場所や働いていた工房も不明です。40代に入った頃にJean Baptiste Vuillaumeの工房に入ったようで、その後約12年間に渡りそこで働いていました。弓製作の優れた才能を発揮すると共に、Dominique Peccatteの指導役を任せられ後の巨匠に技術を教えました。50代半ばを超えたころに独立し工房を構えたようです。独立した時期が遅かったこともあり、彼自身のラベルによる作品は少ないのですが、品質の高い仕事をしました。中にはFrabcois Xavier Tourteの名品と比べられる作品もあります。

Charles Francois Peccatte(シャルル・フランソワ・ペカット 1850-1918)
父Francois Peccatte(1821-1855)は19世紀の弓製作の巨匠Dominique Peccatte(1810-1874)の弟です。父は弓製作において兄にひけをとらない才能を発揮し、兄の工房で共に製作活動を行いましたが34歳で夭折しました。そのため叔父Dominique Peccatteの影響を強く受け、兄弟の中でただ一人弓製作の道に入りました。
ミルクールに生まれましたが、彼が生まれた翌年に一家はパリに移住。父が亡くなった後、一家は経済的に困窮したようです。彼の少年時代、弓製作者Auguste Lenobleが義父となり、彼は義父の下で修行を開始しました。間もなく15歳で、Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の工房に弟子入りしました。叔父Dominique PeccatteがVuillaume工房で働いていたことがあった縁もあったようです。彼はこの工房で指導的な役割を果たしていたFrancois Nicolas Voirinから指導されて急激に才能を開花させました。20歳になる頃から数年間、兵役に出たり他の仕事をしたりして弓製作のペースが落ちたり、義父に半ば利用されるような形で義父の工房で働いたりしていたようです。母が亡くなったタイミングで義父と絶縁した頃から彼の技術が認められるようになりました。30代半ばからは複数のコンクールで受賞するようになり、以後、1918年に亡くなるまで高品質の弓を大量に作り続けました。Eugene Nicolas Sartory(1871-1946)が彼の工房に出入りして時期があったことも知られています。

Dominique Peccatte(ドミニク・ペカット 1810-1874)
Frabcois Xavier Tourte(1748-1835)と並ぶ19世紀の巨匠です。1810年、鬘職人の長男として生まれ12歳頃から美容師の修行を始めましたが、じきに弦楽器製作の興味を持つようになりました。1826年頃、当時のフランスで弦楽器ならびに弓製作で指導的な役割を担っていたJean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の工房に入り、弓製作の修行を開始しました。弓製作の技術指導は同じ工房にいたJean Pierre Persoit(c1783-1854?)がVuillaumeより依頼されて行いました。1839年頃、Francois Lupot U世(1774-1838)の工房を継承しました。

Francois Xavier Tourte(フランソワ・グザヴィエ・トゥールテ c1748-1835)
現代弓の構造と形態を完成させた人物です。彼の弓は、「弓のストラディバリウス」と呼ばれ、現代の製作者だけでなく演奏家達にも絶賛されています。 弓製作史上最も重要な人物と言えるでしょう。
フランス革命の混乱により記録が残っておらず正確な生年月日は不明です。大工であるとともに弓・楽器製作者であった父Nicolas Pierre Tourteの次男として生まれたとされています。当時は楽器関係の仕事で生計をたてるのが難しかったため、父は少年だった彼に時計職人の道を歩ませました。しかし時計職人でも生計をたてるのが大変だったため、元々興味があった弓製作に本腰を入れ始めたようです。1774年、パリで自分の工房を構え、弓製作の才能に恵まれていた兄Nicolas Leonard Tourte(1746-c1807)とともに仕事を開始しました。高名なバイオリニストJean-Baptiste ViottiやR.Kreutzerと出会い、彼らと共同で研究し、現代に通じる弓を完成させました。
彼は、フェルナンブーコ材が弓材料として最も適したものであることを発見し、弓の寸法や反り具合やバランスの変更、リング(フェルール)の発明、フロッグの改良、スティック断面の工夫など、数多くの改革を行いました。
1835年に87歳で亡くなるまで旺盛な製作活動を続けました。製作者としての活動期間は75年にもおよびましたが、その間の仕事ぶりは完璧主義で貫かれたものでした。現代に残る彼の作品は恐らく5000本ぐらいであろうと言われています。実際の製作本数は不明ですが、18〜19世紀の一流弓製作者のそれと比べると多くはなかったかも知れません。

Eugene Nicolas Sartory(1871-1946)
弦楽器トピックスvol.6

Hermann Richard Pfretzschner(1857-1921)
Markneukirchenの弓工作技術を父であるCarl Richard Pfretzschnerから習いました。1874年の1年間、彼はパリのJ.B.Vuillaume(1798-1875)の工房で働きました。この比較的短い修行期間は、彼自身のキャリアだけではなく、ドイツの弓製作全体にも影響を与えました。
1880年、彼はMarkneukirchenで自分の工房「H.R.PFRETZSHNER」を開き、1914年に息子達HermannとBertholdに引き継ぐまでの間、数々の名誉ある称号を授けられるなど、大変大きな成功をおさめました。息子達も父親の技術をきちんと継承し、「H.R.PFRETZSHNER」の名を守りました。
現在は弟Bertholdの孫が「H.R.PFRETZSHNER」を受け継ぎ、現在でも非常に高品質の作品を産み出し続けています。
彼がJ.B.Vuillaumeの工房で修行していた時、同じ工房にFrancois Nicolas Voirinがいました。PfretzschnerはVoirinの卓越した技術だけではなくその人格にも深い感銘を覚えました。その尊敬の念を込めて、Voirinの了承の下、Voirinの名前で作成した弓がありました。